あの日、あの時、アタシは。
1995年1月17日
AM5時46分52秒
その頃アタシは大東市民で
中学二年生
実はその時
アタシは5時半に目を覚ましていて
二段ベッドの上段で
蹴っ飛ばしていた布団を
寒さのあまりに
首元まで引き上げた時だった
そう、みんながまだ夢の中にいる時間
不運にも起きていた
だから、その地震が起きた瞬間もリアルに覚えている
だからこそ
あまりにもショッキングで
あまりにも非現実的で
声も出せなかった
大阪は震度5
家が潰れると思った(潰れなかったけど)
震源地は兵庫県南部
M7.3
あれから大きな震災に何度も見舞われている日本だけれど
大阪では最近起きた大阪北部地震が久しぶりに起きた大きな地震で
それでも家屋が倒壊するようなレベルではない
しかも局地的だった
そう、アタシ自身は
阪神淡路大震災以降
あの規模の大きい地震に遭っていない
そう思うと末恐ろしさを感じる
近々来ると言われている
南海地震、東南海地震、東海地震
果たして、アタシが生きている間に起きるのか
あの震災の日
なまじっか起きていたのと
中2の多感な時期
かなりの心的ストレスで
不眠症となり
なかなか治らなかった
電気を消して寝れなかった
今考えると急性ストレス障害になっていたと思う
今でもふとしたきっかけで不眠症となるが
決まって、電気を消すことができない
暗いと地震がくる恐怖がついて回り
今でもフラッシュバックする
25年経ってもなお
中学生の冬は悲しい記憶ばかりだ
中1の冬に父方の祖母が亡くなった
上品なお婆ちゃんで、おはぎを作るのが得意だった
父方祖父はアタシが3歳の頃に亡くなっていたので
父方の実家の記憶は、祖母の思い出しかない
雪が降り積もる冬に、お遍路さんのような白装束で棺桶を担ぐ父の姿を覚えている
中2の冬に、阪神淡路大震災
中3の冬に、母方祖父が亡くなった
アタシが襖を隔てただけの隣の部屋で寝ていた、翌朝だった
祖父の最後の息遣いを覚えていて
酷いイビキだったなと
でも祖母が隣で寝ているから
日常的にそういうもんなんだろうと
だから、少しでも呼吸がおかしいなって思って
叔父や叔母を起こしてればと
今でも後悔している
だから中学生時代の冬は
人の死に深くまつわる悲しい記憶しかない
そんな1995年1月17日
けれど
ボランティア元年でもある年
あの時、人が
損得勘定なしに、助け合う
非常事態の時こそ、互いを思い遣る
そんな日本人の姿もたくさん見てきた
今でも、災害時には
そんな日本人の姿を多く見かける
助け合い、思いやりの精神
そんな時に中学生時代を過ごしてきたから
自身も福祉に興味を持ち
その道に進んだのかも知れない
そして、今でも持ち続けている「誰かの役に立ちたい」という思いは
あの時目の当たりにしたボランティア精神から来ているのかも知れない
アタシの心に深く傷をつけた震災だけれど
新しい芽も植え付けた🌱
なんて、思う。
みなさんは、あの日、あの時
どうしていましたか?
どう感じていましたか?
ではでは。
Rockin’ Butterflyでした🦋