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自分を活かして生きる「決起」のススメ

主体性が認められにくい職場環境

「自主的な人」は…会社では評価されやすい。
やらねばならぬ課題を明確にして、率先して遂行するし、短期的にやり遂げると「ヒーロー」扱い。

「主体的な人」は…会社では評価されにくい。
やりたい事をやり抜き、そこに意味を見出したとしても、成果が見えにくいから「ヘンタイ」扱い。

そのため、現場では上司先輩に「従順な人」であることが求められがち。
上司や先輩に従順に従っていないと「使えない人」扱い。

それは、「自分達は、日々の業務によって、どこにいるどういうお客様に、どのような幸せをもたらせたいのか」という運営ビジョンや、コーポレート・アイデンティティ(C・I)が形骸化している会社に多い。

未来の子供達、未来のあたりまえづくりのことを考えると、実は「主体的な人」こそが、新たな価値を創造する。

なぜなら、日本は、未だかつて誰も経験したことが無い慢性的かつ永続的な「人口減によるマーケット縮小」が始まっており、これまでの価値づくりの常識を疑うイノベーションが求められているからだ。
主体的に生きている「個が」集まる集団なら、「過去の成功体験」に酔うこともなく、常識を疑う姿勢を止めることを知らない。

また、成果を上げるとは、成功のみならず、挑んできたことの「失敗」もすべて含めて、次につながる「糧」となるものを見出すことだ。

つまりは、そうした「主体的行動」こそが、イノベーションの根幹になるところだが、大半の企業では、成果よりも成功ばかりを求め、失敗を認めにくいから「主体性」よりも従順な「自主性」を求めてしまう
要は、主体的に生き抜こうとする社員が評価されない会社は、イノベーションを起こすことはあり得ないと言っても過言ではない。

入社説明会や面接などでは、「わが社は主体的に自律した人を求めている」と組織側が断言しておきながら、入社してみると「主体性」がある人財ほど、チーム内で疎ましい存在になっている会社が大半なのは滑稽な話だが…入社後に疲弊していく若者が多い事実は、全くシャレにならない。


自主性すらも摘まれる社会環境

もっと驚くべき実態としては、「主体性」だけでなく、「自主性」の芽生えまでも摘んでしまうほど、上司や先輩の固定観念を押し付けられる日々が待っていたりする。

根深く潜む「自分らしさ封印化」…結局は「どこの誰にどのような幸せをもたらすために自分達組織の意味がある」というビジョンやC・Iが有機的なものになっているのか…その真価が問われている。

その一方、経営理念、ビジョンやC・Iが機能している組織は、自主的な人も主体的な人も、いい具合で機能している。
実のところ、ボクは、それがしっかり機能している企業組織が存在していることも認識しているし、有機的なものにしようとする事業者とリアルに向き合っている。
中には、「職場とは本気で人生を豊かにする場所」として成長を続ける組織が実在しているのも知っている。

しかし、実態としては経営理念やC・Iが形骸化しており、全く機能していない会社組織のほうが、遥かに多い。
むしろ、それが有機的な企業がメディア取材されるくらい、あたりまえのことが世間では「珍しい」とされているほど、歪んだ社会となっている。

これだけなら、形骸化そのものをシフトチェンジするれば良いじゃないかと話を片付けられがちだが…もっと根深い問題があることから目を背けてはいけないんだよね。

先に述べた「個人のアイデンティティの封印化」だ。
「組織のアイデンティティの形骸化」の水面下に潜んでいるだけならまだ良いが、夢も希望だけでなく、自分自身すらを見失うことが慢性化している。

個人における「わたしは、どう生きたいのか」「わたし自身を活かすことが自分の幸せにつながる」…これを封印させて「社会とはそういうものだ」とあきらめたり、そう決めつけている働き手がどれほど多いか…。
決めつけたくはないが、そう思っていないと「適応能力がない者」というレッテルを貼られる職場も枚挙にいとまがない。

結局、各個人による自分自身の「個性の封印化」が根底にあり、その上にビジョンが形骸化した組織が創り出す商品やサービスは、いずれその先にいる顧客の信用と信頼も失うことは明白。
それなのに、そういう会社ばかりであるというのは、「業界の常識は世間の非常識」ばかりを生んでしまい、生活者の安全と安心を奪われる。

そんなの…誰も幸せになれないよね。


そろそろスタンスを変えてみよう

この「個人の自分らしさ封印化」は、一体どこからきているのか?

これは各個人の資質ではなく、とても厄介なのが、社会全体で造られている「構造」にあるということだ。

  • 自分で描くほどの自由な環境で物事を考えているのではなく、周囲の環境設定や社会的規律という「構造」によって、行動させられていること

  • 無意識のうちに、組織に迎合する「マジメちゃん」として、行動の制限を自ら容認してしまっていること

今のシステム経済が、こうした「構造主義」「ポスト構造主義」前提で成り立っている姿を表している…とても象徴的なことだ。
そればかりではなく、何かしらの社会構造に支配されていることは、実は、誰もが無意識のうちに「容認」してしまっている…それはなかなか恐ろしいことでもある。

いつからそれを容認せざるを得なくなったのか…就学前の幼稚園や保育園では「あなたらしくて良いのよ」と言われてたはずが、就学後は「自主性」がある子は優等生と言われても、「主体性」がある感受性の強い子は、協調性に欠けると問題児扱いになりがち

そして大人と成って職場に出ても、ますます「個性の主体性を封印するのは当然のことだろう」という空気が、結局は生活者(働き手)を中心に蔓延し続ける。

そうであるならば…システム経済や組織のあり方に対するアンチテーゼを唱えたところで、何のクリエイティブ性も感じない。
何ら根本的解決も生まれない。

結局ボクが最も問いたいのは、社会組織よりも「個人のあり方」ということになる。
今こそ、一人ひとりの生きざまが問われているということだ。

「個の主体性」が今の時代に覚醒しないと、未来のあたりまえは創れない。
それは、次世代の子供達にも、本質的な自由と幸せはないということを意味している。
そろそろ、我々大人からスタンスを変えてみようか。


組織が働き手から評価される時代へ

一人ひとりの個人が「自分はどうしたい」という主体性を持ち始めたと仮定しよう。

そうなると、それぞれの主体性のもと、就職前も就職後も、自分の勤め先を「審査する側」となって構わない時代になるだろう。
個人サイドばかりが、入社審査や、人事考課されている場合ではない。

自分の生活の大半を費やす職場は、一体誰にどういう価値を創ることに挑んでいて、自分はそれのどこに共感できるかを探求していい。

また、入社した若い世代が、実際に勤め始めてみたら、勤務先が掲げていたビジョンやC.Iなどが実態とあまりにかけ離れていることを実感し、勤め先に愛想を尽かすことになる場合も、すぐに他の道を探しても構わない。

つまり、それによって社員の定着率が低くなる場合は、企業側の経営理念の形骸化が起因している可能性を、露わにする時代とも言える。
それが露わになるのは、何も雇用関係の問題ではなく、自社の顧客に対する社会的責任すら問われていることに他ならないからだ。

そのためにも、社員の定着率という指標は、今後とても意味のある指標になるだろう。

価値づくりの姿勢が、顧客からもとても細く長く愛され続け、仕入先とも良質な関係を築く会社が、社員の定着率が良いとなると、信頼は高まる。
そういう企業組織は、やはり経営理念やC・Iが有機的に機能しており、形骸化することがない。


定着率が高ければ良い会社とは限らない

一方で、逆説的な捉え方もできる。

不正検査・商品偽装・データ改ざんなど大手企業が後を絶たない中で、その企業の社員定着率がとても高い企業というのは、何を意味しているのか?っていうことだ。

「私らが悪いんであって…社員が悪いんではありません」と、大手証券会社の社長が泣きながら記者会見して倒産していった記憶も懐かしい。
当時、これは異様な違和感に包まれた光景だった。

優秀な人の集まりであっても、不正が慢性化する体質を許していたということは、関係者には「主体性」ある個人がいなかったということだよねという見方ができなくもない。

どこにいるどういうお客様に、どのような幸せをもたらせたいのかは「価値観の同調圧力」になっているのも、どこか気持ちが悪い。
さまざまな価値観や感性をベースにした個の「主体性」によってイノベーションを起こすことができるので、大きな会社になるほど「その価値を創るのはなぜ自分達である必要があるのか」を問い続ける必要がある。

今後は、組織の理念やC・Iが実態に合っていない形骸化を感じたら、「この会社では自分を活かす生き方が見えない」と見切りをつけていくこと…それは敗北でもなんでもなく、嘘のない自分で生きることを選択した証となる。

ただし、組織を批判する前に、「自分自身のアイデンティティは何か?」を明確にすることが大前提になる。
それはそれで、何一つ楽なことがない。

楽ではないから、多くの大人が「自分自身のアイデンティティは何か」を整えるというメンドクサイことから、目を背けたままで…愚痴ばかりを放つ。

そして今日も「家族を養うため、自分を犠牲にして、上司のご機嫌伺いに出社する」みたいなことが、自分の仕事だと勘違いしてしまう。
人に従順である方が、楽しくはないが楽なので、嘘のない自分を本気で楽しめることを放棄してしまい…自らの前途を壊滅させているんだよね。


実はC・Iは小規模に合う

ボクらは、「今こそ、一人ひとりの生活者よ!立ち上がれ!」なんて、現代版の「百姓一揆」を起こしたいわけではない。
いわゆる革命を起こしたわけでもなんでもない。

革命は、傷しか生まれないエゴになってしまうのが関の山。
幸せになるために生まれてきたんだから、それをしている暇がない。
そもそも、革命というのは…別のリーダーの存在が求められ、結局は新たな依存と迎合が始まる構造が待っているのなんて、あまりに皮肉過ぎるしね。

そうではなく、この国が誰も経験したことが無い慢性的な人口減という経済環境により、これまでの常識が通用しない新たな「未来のあたりまえ」を創る上では、明らかに時代が「個の主体性」を求めている。
ボクらは、その流れに身を任せているだけのことだ。

そして、組織が「自分達は誰の幸せに向けてどうありたい」と示すことは、大手企業よりも個人事業主や小規模事業者ほど活きやすいと気づいている。

ダイナミックにインパクトのあることをする時代ではなく、人口減によるマーケット縮小の時代は、「顔が見える関係性」をコンパクトに築く必要があるからだ。

サスティナブルとか、ダイバーシティとか、ネオ資本主義とか、ニューノーマルとか、別に「それらしい」言葉を並べなくても、ボクらのあたりまえ取り戻すことを、コンパクトに築けばイイ。

実際、町の商店や町工場、個人事業主では、「自分達が築ける未来のあたりまえ」を明確にしているところは、たくさんあるしね…。

そして、「あたりまえ」の対義語が「ありがとう」…自分はどうしたいのかという「主体性」が、人に「ありがとう」と言われることで、社会は成り立つ。

「カネは天下の回り物」?
違うね…。
「天下はありがとうの笑顔で回す」んだよ。

経済は「ありがとうの循環」でできているんだ。
構造主義や全体主義にわが身を委ねたり、自分の気配を消そうとするところから、そろそろ脱却してみないか?って話だ。

自分自身の「主体性」そのものを放棄してはいけないんだ。
自分独自の「主体性」を自ら決起してみたらどうだろう?
そういう人が増えると、人と戦うこともなく、自分も傷つけることもないく「笑顔の蜂起」になる気がするんだよね。


個人事業主として勤務先と契約の時代

ボクの周りにいる個人事業主には、良い具合の二面性を持ち合わせている。

「自分の先にいる人にはどういう幸せをもたらせたいのか」と自分にできるあたりまえのことをどう価値づくりに活かすかという生産者の一面。

その一方で、「自分自身はどのように納得しながら生き抜くために日々の暮らしを自分で築こうとしているのか…その想いと相性の良い価値づくりをしている事業者から提供してもらう商品・サービスに、ありがたみを感じながらチカラを借りる」という消費者目線。

つまり、生産者の立場でも、消費者の立場でも、どちらにも「自分はどうして行きたいのか」という主体性を持ち合わせているため、「自分を活かして生きる者…心豊かな生活者」を体現化させている。

実は、公私ともにボーダーラインを敷くこともない代わりに、公私ともに納得できることを探究し続けているから、何一つ楽なこともしていない。
だけど、間違いなく「自分を活かして生きる」生活者になっている。

ボク自身、実は個人的には誰もが起業すれば良いとは思っていない。
商売はそれほど甘くはないし、商いに向いていない人を無理やり孤軍奮闘させる煽り方は好きではないからだ。

しかし、「個人事業主感覚」は、全国民が持つと、間違いなく「自分を活かして生きる」生活者が増えて、ありがとうの循環経済の体現化がいろんな場面で増える確信も得ている。

そうであるならば…これからは、企業勤めする人は、転職だろうが新卒だろうが、そうした経験値は関係なく、「個人事業主感覚」で、企業と雇用契約をすればいい。

優秀な個人事業主感覚の人と契約したい企業は、企業側から「自社の掲げる理念やビジョンが、形骸化せずにどれほど有機的に組織が運営できているのか」をアピールすることが主流にならないといけないのかもしれない。

つまり、「就職活動」ではなく「雇用活動」自体がメインとなる社会だ。

それでもまあ、今これがなぜ実現しないかというと…前段で記載したように各個人が「自分はどう生きていきたい」という主体性の決起が、まずは求められるんだ。

そろそろ、あなたから立ち上がろうか。
大丈夫、自分にしかできないことを築くことは誰にでもできる。
そして、自分が主体的に築くものは、人と比較する必要もなくなるから、できることからコンパクトに始めれば良い。

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Backstage,Inc.
事業文化デザイナー
河合 義徳

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