「やればできる」を空回りさせない
やってみたものは、「本当に自分がやりたいことだったのか…または、自分がやりたいことに、どうつかながるのか」の意味を、自分に問う機会をつくること。
これを怠ったままで「やればできる」と背中を押しているばかりというのは、言われている本人には、空回りが起きやすい。
やりたくもないことを、無理矢理やらされ続けているなのなら…できたとしても、本人はそれほど嬉しいわけでもないし、できなかったとしても、周りに残念がられるほど気にはしていないからだ。
要は、やらないといけないよと「人の説得」に迎合するばかりでは、やったことが、次へのつながりも生まれにくい。
やっていること・やったことに「自分が納得」できているのなら、その後の自分に必ず活かせる。
肝心なのは、そこなんじゃないかな?
苦手克服よりも得意を磨く
やりたいことではないと気づいたものを、できるまでやらないといけないと自分に言い聞かせるのは、ストイックを通り越して、もはやサスペンスだ。
その反面、やり始めてみたことが、「これは自分がやりたいことだった」と気づいたのなら、できるまで「やりたくなる」意欲が自然と湧く。
仮に、「やりたいことしかやらないなんていうのは、とても甘い考えだ」と辛辣なことを言われたとしても、辛いことばかりで終わる人生よりも、ボクらは、自ら幸せになれる人に成ることを支持したい。
「やりたいことばかりをさせていては、幼い子はやりたくないことは一切やらなくなる」と、すごい形相で反発してくる人もいる。
果たして子供達は、やりたくないことは本当にやらなくなるんだろうか?
できないことに対して「苦手克服が大事」と、目くじらを立てているのは、受験対策ばかりを意識して、学びの本質や目的を見失っている一部の大人達だけだ。
苦手を克服する時間があるのなら、「自ら考え行動するチカラ」を浮き彫りにするためにも、得意なことやる時間に充てて、とことんやらしてあげるとイイんじゃないかな。
その「得意」なことが「特異」になると、その人にしかできない価値づくりにもつながる。←ココがポイント!
「得意が特異に進化するプロセス」においては、興味関心があることを自らもっと掘り下げたくなると、自分の苦手なことの克服も必要となってくることも多くなってくるが、興味関心につながることであれば、苦手な事であっても、自分から探究してみたくなる。
要は、苦手だった事も「やりたい」に変わることもあるということだ。
興味関心を度外視したままの「やればできる」は、空虚なものになる可能性が高いということを、もっと我々は認識しても良いんじゃないかな?
もちろん、まずは何でもやってみるといい
まずは何事もやってみたらいい。
できるかどうかではなく、何事も、やってみることから始まる。
だから、何でもやってみると良い。
大人が「子供に行動制限を設ける」のは、命の危険が及ぶことや、人を傷つける可能性が高いことの判断力が乏しい時期だけで充分。
やってみた結果、自分が本当にやりたかったことが見つかることもある。
やってみた結果、自分が本当にやりたいことにつながることもある。
結局は、やらないと体感と実感が湧かない。
大事なのは、冒頭記載のように、本人が「できるまでやること」を周りから押し付けられることなく、「自分がやる意味」を振り返る機会を周りがつくってあげることだ。
振り返りは「どうしてできたのか・できなかったか」だけではなく、「今やっている意味・やってみた意味」そのものを自分に問うてみること。
そう考えると、前者は「反省」で、後者が「内省」なんだろうね。
まずは、「内省だなんて…そんな難しいことは子供には無理でしょう…」という固定観念を取り除くことから始めてみないか?
夢中になって、とことんやり抜こうとする意欲…そして、やってみたことの意味を自分で見出すのは、大人よりも子供のほうがイキイキと楽しんでいる可能性も高い。
どうしたらできるようになるのかの「反省」ばかりをさせられて、自分がやる意味を考える「内省」の機会が奪われてきたオトナほど、「やりたいことばかりさせていると、やるべきことをやらなくなる」という固定観念を払拭できることができない。
子供達は、固定観念のカタマリとなっている大人よりも、無限の可能性を持っている。
そういう環境をつくるためは、我々大人が勇気を奮い立たさないと、永遠にできないよね。
そう…「内省」することは、まずは我々大人から習慣づけるとイイ。
Backstage,Inc.
事業文化デザイナー
河合 義徳
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