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納得できないことで得る空虚な安定

自分の「納得」できないことに目を背ける代償として、それ相応の「安定した生活」を得られるとしよう。
しかし、それによって得た安定に「満足」し始めると、どうなるのか…。
自分自身が持っていた独自の感性が鈍り続けていることに、なかなか気づかなくなるんだよね。

本来は個性があったはず

「納得」できることを放棄することが増えると、最初は意図していなかったのに、いつの間にか「自己犠牲こそが美徳…働くとはそういうこと」という正当性の主張まで飛び出すようになる。

ところが、その先の成れの果てに、守ってくれていると信じてきた場所で、自分の存在価値そのものが薄れていることに気づいてしまった時に迎える虚しさほど、残酷なことはない。

あれ?自分は何のために頑張ってきたんだっけ…?
自分の「納得」よりも、チカラある人や組織に迎合して、結果として「満足」させる事が、自分の安定した生活につながると信じてきたんだけど…。

思い起こせば、若い頃の自分は、意気揚々と綺麗な目をしていた。
それなのに、いつの間にか「キレイゴトなんて無駄…納得できなくても長い物には巻かれておくことが、身のためだろう」と自分に言い聞かせてしまっていた。


気づいていたけど勇気がなかった

いや、実は途中でも気づいていたんだ。

  • コレが本当に自分がやりたかったことなのか?

  • 自分でも胸を張れる価値を創っているんだろうか?

  • これが本当の豊かさなんだろうか?

そんな違和感は、何度も頭を過っていた。
しかし、「安定した生活」の「満足」には、欲と執着が生まれやすいため、いろんな犠牲を伴ってきたものが多いほど、その「満足」を手放す「勇気」が削がれる。

だから、どうしても「納得できないことだらけでも仕方ない」ということを正当化させる傾向が強くなっていたんだろうな。

少年の頃には、多くのオトナに…

  • 人と違って良いんだ…個性を大切にしなさい

  • 自分が納得するまでやってごらん

散々そう言われてきたはずなのに…大人に成って社会に出ると、こうした事は、ほとんど求められていない。


認めてはくれるが求められてはいない

海外赴任から帰国した方の気づきで「この国は、人と違うことが求められない社会になっている」という表現が腑に落ちる。

「認められない」よりも「求められない」のほうが的を得ている。

「人と違う」ということを、認められていないわけではない。
しかし、求められてはいない。
それならば、「人と違う」ということは、評価の対象にはなりにくいということになる。

個人が持つ感性や知性よりも、組織にとても従順で、正確な情報処理能力の高い人ばかりが求められる社会でしょ?
それなら、「人と違うのが良い」という意識は、どうしても薄らぐよね。

何だよ…またまた「キレイゴト」ですか…。

そう思われても、ボクらは多くの人に問いたい。

人と違うのが良いということが「求められる」社会を、ボクらから築いていかないか?

「人と違って良い…ありのままのあなたで良い」とか「もっとあなたの個性を活かせば良いんだよ」…って、何かあるごとに、子供達には伝えていないか?

それなのに…
オトナに成った瞬間「人と違っても良いんだけど…」…その先に求められるのは、「個人的に納得できなくても、みんなが満足できる結果を出してよ」ということばかりが求められる。

それならば、子供達には、ボクらは日頃、とてもオトナ都合のズルい励ましにしかなっていなんじゃないかな。
子供の頃には都合の良い励ましをしておいて、大人に成ると「人と違うことより、まずはみんなと同じようにしてよ。」って…何だよソレ?


ボクら世代から変えて行こうか

組織にいても、個人事業主であっても、同じことだ。
まずは「業界の常識は世間の非常識」となっていることを、少しずつ逆転させていくだけでイイと思うんだよね。

どう考えても、今ある業界の常識が、一般生活者には「納得」できないことがあっても、「こういうものだから仕方ありませんよ」という歪んだ満足の押し付けになっていることは、往々にしてある。

なかなか難しいことだが、「こちらの価値提供は、我々業界の人間には常識的なレールに乗っているものだが、自分がこの業界外の素人ならば、もっと納得できるアプローチがあるはず」ということが、小さなイノベーションとなってきたことだって、たくさんある。

これは業界に限らず、「この業界のプロに依頼するなら、多少納得できなくても、生活者の方が業界の常識に合わせるべきだろう」としてしまっている実態には、当事者ほど気づきにくい。

自分が業界素人の一般生活者として、納得できるまで掘り下げる姿勢こそ、一人ひとり違う感性が働くから有機的なものになる。

一般生活者目線で向き合うと決めたはずなのに、「お客様の心に寄り添います」なんて、実は上辺の言葉だけになってしまっていて、「怪訝なご様子ですが…お客さん、この業界ではこういうもんですよ」と、依頼主の何が納得できないのかを向き合おうとしないことは、ボクの日々の業務遂行でもあり得る。

まさに「自戒の念」だ。

つまり、「満足」なんて、どちらか片方だけが感じる事で「一過性のもの」になりがちだが、価値づくりに勤しむ側も、創造価値を活用する顧客側も、「納得」は積み重なるものだから、双方共に妥協することができない。

それでも、その都度「納得」できるまで掘り下げると、自分の感性もさらに研ぎ澄まされる。
また、それが価値あるものとして、人に「求められるよう」になるまでは「安定」の保証が何一つないが…人に求められる域まで辿り着いたら、あとは「信頼(未来への期待値)」しかない。

「満足」より「納得」できる生き方の中心にある「働く」は、一生の「なりわい」にもなり得る。

だから、「一人ひとり違う感性」が「求められる」社会にしたいんだよね。
しかも、それはどうしても独りではできないんだ。
みんなで、今日から自分を問うてみようか…今の自分の仕事の常識は、本当に一般生活者にとってのあたりまえの価値になるものなんだろうか?と…。

Backstage,Inc.
事業文化デザイナー
河合 義徳

#勝ち組より価値組
#ありがとうの循環経済
#満足よりも納得
#子供達は大人の嘘を見抜く天才達
#この国の常識を疑ってみる

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