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働く・学ぶ・暮らす......そのあらゆる場面で自分らしさを活かして生きる。
そんな人と出逢うたびにボクは深い共感を覚える。
人の目を気にしたり誰かに迎合したりすることもなく、嘘のない自分を生き抜こうとしている人を、ボクは「ロックな人」と称して、その生きざまには美しさを感じている。

「未来に期待したくなるジブンスイッチ」はじめに

インディーズ・レーベル(自費出版)で出した『未来に期待したくなるジブンスイッチ』という本は、こうした言葉から始まる。

著書では、働き・暮らし・子育てのつながり、他者とのつながり、自分の未来とのつながり…この三つのつながりの「がんばり方」を間違えないための「構造」を体系的に説いたが、著書内では端折っていた提言がある。

学校教育での「国語・算数・理科・社会・(英語)」の廃止だ。
廃止しても、いわゆる「読み書きそろばん」の類は、違うカタチでもしっかりと身に付くものにする。

いずれにしても「国・算・理・社・英」は、進学と就職のための勉強がメインであり、自分を活かして生きるための学びとは程遠いのが現状であるため廃止する。


優秀な社員の頃には響かなかった 


多くの大人達が、働くとは辛いことを我慢してお金を稼ぐことだいうことを、自分の姿勢は背中で語ってしまっているため、早く大人になって社会に出たいと願う子供が少なくなる一方ということは、著書でも触れている。

一方、最近の読者の感想が伝わってきたことが、とてもリアル。

「勤めていた頃にこの本を手にした時は、正直、難しいというかきれいごとのように感じて、気づいたら読まなくなっていたままだった。」

おそらく「ロックな人になる」なんて所詮は夢物語と感じられたのだろう。

ところが…自分らしさなど求められない会社勤めを辞め、新天地での働きとなると…

「もう一度読み始めたら自分でもびっくりするくらいスラスラ読めて止まらなくて…なんなら線を引いたり、メモ書きまでして…目から鱗が落ちるとはこういうことかと思いました!」というご感想。

その方の変容ぶりから想いを馳せると、在職中だと「所詮きれいごと」と取り付く島もない状態というのは、おそらく前職の会社体質や、ご自身の性格という個別の問題は微々たるものだろう。

むしろ、自分に対してよりも、指導者に対して常に素直であることで人に迎合したり従順となることが人として大切という社会全体が造り出す「包摂」のもとにつくられた歪んだ教育システムにあるのではないかと思われる。

そうした教育が美徳化されていき、いつの間にか「自分を活かて生きることなど、ワガママ極まりない社会悪」という空気感で、本来一人ひとりが生まれ持っていたはずの自分の「主体性」に蓋をすることが正当化されているのかもしれない。


小中学校の教科の全面改訂案

そうした中で、教育現場も子供達の主体性が自然と育まれる土壌づくりは、全国各地で草の根から始まっている息吹も感じる。

ドキュメント映画「夢みる小学校」でも話題となり、各種メディアでも取り上げられている公立の小中学校も出てきたようだ。
また、ボクが知り得る就学前の環境(保育園や幼稚園)においても、今問われているのは我々大人であることをしっかりと認識しながら、一人ひとりが幸せに生きていくための教育に変えようとしているところは多い。



最後は、国全体で動かないと、結局そうした動きも少数派に過ぎず、社会に出ると息苦しい想いをする人は後を絶たない。



ボクが提唱する教育改革は「国語・算数・理科・社会・(英語)」という科目の撤廃し、自分と周りを活かして生きるための学びの科目に変換させることだ。

あるべき科目は、ロックな大男流でいうとこうなる。

「衣」「食」「住」「遊」「働」の五科目だ。

全て社会に合せて生きるのではなく、自分に合う社会を築くために必要なものとして「探究」する。

「衣類のあり方」
「食のあり方」
「住まいのあり方」
「森や海に感じる遊びのあり方」
「誰かの未来の幸せを創る働きのあり方」

これら五つ全ての枕詞に「自分に合う」を付けてもイイ。

それぞれトコトン探究していくと、読み書きソロバンだけではなく、化学や生物、歴史や経済のことも探究していくことになる。
「遊」では、森や海での自然との触れ合いは不可欠であり、この地球と人がどうつながっているのかの体感探究を必須とする。

美術や哲学などは「遊」ではなく「働」の科目に組み込んでも面白いかもしれない。
田畑を耕すことや、機械工具を使う現場に出向くなど、もちろん社会環境の協力も「働」では不可欠とする。
その他「衣」「食」「住」の探究時間でも、実生活において本来の心豊かさは何か、自分に合う暮らしづくりとは何かを感じ取る授業にする。


提唱よりも実践なんだろうな

大体こういう話は「面白いよね」で終わる。

最終系で、「国・算・理・社・英」の授業を廃止し、「衣・食・住・遊・働」の探究をしていく教育機関が出てくることは、確かに現実的ではないかもしれない。

そうであれば「進学塾」の代わりに「生活塾」なんていうのから創っても良いんじゃないかな。
そこには「競争社会」というものが、一切ない世界だ。

気づけば、物理的距離は日本各地に散らばれど、思考的距離が近い同じ匂いの各分野の人がボクの周りには少しずつ増えたし、実際に活動に移すともっと優秀な「発育家」が現れるはずだ。

できるかどうかよりも…やるかやらないかだ。

さて、どうする?
あと数年で還暦となる大男。
いつかヒコーキに成ることは決めているが、次世代を担う子供達のために「生活塾」なるものを創るか?

せめて、そうしたことの実現に向けた対話仲間を増やすことから始めてみようか!

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<追記memo>

定例訪問先のミーティング後に何気なく対話していた中で「ボクらは非日常を楽しくして感動を産み出すことよりも、日常にある中の小さな感動を拾い合う社会にしたいんだね。」と確認し合う場面があり、これは学びも一緒なんだなと気づかされた。

学びとは、自分を活かして幸せな生きざまを築くためにあることとするならば…

今の学校教育の「国語・算数・理科・社会・(英語)」という科目は進学や就職を目的とした学びであり、長い目でみるとそちらのほうが「非日常的」な学びと言わざるを得ない。

「衣・食・住・遊・働」という新たな学科目の中には、読み書きそろばん、化学や生物学、歴史や社会学など、すべて自然と盛り込まれており、自分を活かしたなりわいを身につけていく上でも「日常的」な学びと言えるんじゃないかな。

むしろ、自分らしさに蓋をして辛いことを我慢してお金を得ることが働くことだということが日常化・美徳化している人が多い事の方が末恐ろしい。
ボクらは、いつまで次世代を担う子供達に同じ轍を踏ませようとしているんだろう。

Backstage,Inc.
事業文化デザイナー
河合 義徳

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