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「やり方よりあり方」の誤解

◆あらためてアウトプットする理由

「やり方よりあり方」という表現は、個人的にあらゆる場面で使い続けて、15年以上は経つだろうか。
使い始めた当時は、「はぁ…?」と見向きもされなかったことを考えると…最近では「ハッとさせられる!」と笑顔で応えてもらえることが増えたようにも思う。

もちろん、「やり方よりあり方」というのは、既に先人から認識されている「あたりまえ」のことのように思うので、誰かの専売特許的フレーズでもないが、ひと昔前に比べると、目にする機会がにわかに増えた。
まだ、「時代があたりまえを取り戻した」というわけにはいかないけれど、「年々、あたりまえのことが、本当に難しくなっている」と認識する人が増えつつある…それは悪いことではない。

その一方で、「やり方よりあり方」という表現は言葉尻だけが独り歩きして、二つの点でボクが意図していない意味合いだったり、誤解されたまま受け留めてしまう人も増えた気がしている。

ボクが、その誤解の拡散を止めらるわけでもないが、この言葉の本質に気づいた背景を含めて、二つの誤解についてアウトプットしておくことにした。


◆この言葉を使い始めた背景

キッカケは人との関わり

ボクがこの言葉を使い始めた当初は、自分に向けた戒めの言葉だった。

人とコミュニケーションを図る上で、どうしたら同じ未来を見ながら価値を共に創ることができる「対話」になるんだろう? 
初めは「対話」だったはずが、いつの間にか「討論」になってしまう場面に何度も出くわしていたんだよね。 

お互いの意見を押し通そうとする「討論」だと、自分が正論と信じていればいるほど、自論がいかに相手より優秀であるかを競い合い始め…気づけば、論点がズレたままで、話が平行線のままということがあった。

しかし、どうも世間一般的には、平行線のままでは物事が先に進まないからと…関係性に上下や優劣が生まれることを受け入れてしまうこともあるようで、たとえば…

  • 商いでは、お金を貰うほうが下手に出る

  • 人育てでは、育てられる方が従順となる

  • 地域社会の営みでは、周りで決められたことに従う

その結果、立ち位置が不利な側は、理解共感や納得がなくても、同調圧力を上手く自分に消化させることこそが「大人の対応」だという歪んだ受け入れをしていく。

そこに悲壮感と嫌悪感が芽生えたことが、最初の気づきだった。


無関心を増やす構造

「嘘のない自分をさらけ出せる空気」
「本来の自分を発揮できる心理的安全性が担保される環境」

そうした空気や環境は、権力を持つ側が造り出しているだけではなく、立ち位置が不利となる人達が、自らそれを「放棄」しているだけのことという可能性も否めない。

長い物には巻かれろ的に、「自分は未来に向けてどうしていきたい」という主体性を押し殺す大人が後を絶たないのは、なかなか恐ろしい事でもある。

「多数決で物事が決められていく国の仕組みが根幹にあるから、自分達の主体性を表に出しても仕方がないことだろう」と、選挙にもいかなくなる。

だから、多くの人が「政治力や資金力が、人為的かつ恣意的に造り出した常識」に従い、気づけば産業全体で「業界の常識は世間の非常識」のようなことが横行している…結局は自分達の生活に降りかかってくることだ。

給与面や福利厚生などの待遇は良くても、不正会計、不正検査、偽装などに加担することが繰り返され、学校でも、人に従順であることこそが美徳とされるような歪んだ部活文化は、なかなか消えることがない。

つまり、最も恐ろしいことは、子供達の未来の安全性や心豊かさも奪われていることに気づいていながらも…主体性を無くし、あらゆる事に「無関心」になっていく大人が多くなり、自分達で民度を下げているという実態だ。

要は、「あり方」を整えるということは、今まで自分の「あり方」を、自ら蓋をしてきてしまっていたことを素直に認めるところから始める必要があるということを、一人ひとりが認識することから始まるということだ。

  • 生活の営み

  • 人との関わり

  • 社会とのつながり

これらの中で、一人ひとりが、主体的にどのような「実体」を築いていくのかが、民度の基盤として問われているはずなんだけど…
自分のあり方に目を背けてばかりだったので、自然と「どうすれば生き残れるのか」という「手段」にしか関心が行かなくなっていったのかもしれない。

それでも、ボクとしては各個人の可能性は信じ抜きたいからこそ、次のことを確認し合いたいんだ。


常に目的を確認し合う環境

職場、家庭、地域のあらゆる活動場面において、そこに関わる人達がお互い冷静な時期に…

  • そもそも私達の「目的」って何でしたっけ?

  • 私達はどういう幸せを築こうとしているのかな?

そんなこと確認できる場面では、「競争」ではなく「価値共創」に成り得ることもボクらは信じているし、実際に実践をしている。

  • お金を払う人と貰う人

  • 育てる人と育てられる人

  • 声の大きな人と小さな人…

どの関係性でも、「未来に向けた価値を共に創る」ための「対話の機会」を設けると、個々の主体性を押し殺す必要はなくなることを体感している。
それだけではなく、とても建設的なコミュニケーションに変わる事も多い。

数々の失敗を経てきた体験によって、自分達への教訓として、事業活動や地域活動、人育ての場面や家庭内というあらゆる「社会」との接点において、「手段に酔って目的を見失わないこと」「目的と手段を混同させないこと」を肝に銘じてきた。

このように「やり方に飛びつく前に、まずは自分のあり方を確認して、さまざまな実践の後にも、あり方を振り返った上で次のやり方も決めて行く」…そのことが、大切であることを示す意味で「やり方よりあり方」という言葉をスローガンとして活用している。


◆1つ目の誤解


上記の背景により、「やり方」のことを否定しているわけではない。
また、「やり方」と「あり方」では、どちらが上位であると主張しているわけでもない。

「やり方(手段)」の探究ばかりに固執するのではなく、まず自分が納得できる自身の「あり方(目的)」を整えているか?…つまり、「段取り」を間違えると、がんばり方を間違えやすいので気を付けたいということだ。

自分の未来に向けて歩んでいく「軸」みたいなものは十人十色であり、その「あり方」と照らし合わせていくと「やり方」も十人十色で構わない。

また、企業や地域コミュニティなど、特定の組織に属する時は「何のために集まる組織で、その活動にはどういう意味があるのか」という「あり方」抜きで、自分達が生み出す「やり方」(この場合は、商品やイベント)に固執すると、がんばり方を間違えて疲弊し、産み出す価値も高くはならない。

つまり、「やり方よりあり方」は、「やり方」を軽視したり蔑ろにしたいわけではなく、「やり方」に違和感が出てきた都度、過去の振り返りをする際などにも、自分(達)の「あり方」を整えると良いことを意味している。

なお…
「あり方」を整える時や「目的」を再確認する時は、未来に向けた行動の意思決定の源となるので、「頭」よりも主に「心」を働かせたい。
自分(達)独自の「あり方」に沿った「やり方」になっていれば、頭を働かせて、その「やり方」を磨くといい。

結局は、多くの「やり方」を習得できていないことを心配する必要もなく、それでも自身の「あり方」を抜きにして、「やり方」ばかりを自主的に学ぶことは、独りよがりや空回りを招きがちとなる。

主体的かつ自律的に自身が納得する「あり方」の解像度が高まってくると、「やり方」を間違えることも少なくなる。


◆2つ目の誤解


「あり方」を深掘りすることや、自分と向き合うことは確かに良いことだ。
納得できる「あり方」を築かないと、「やり方」を間違えやすい。

しかし、いつまでも「あり方」ばかりを探究することも、個人的にはあまりお勧めしていない。

先に述べたように、日々の「生活の営み」「人との関わり」「社会とのつながり」の中で、ボクら一人ひとりが、主体的にどのような「実体」を築いていくこと…そのための「あり方」だからだ。

自分(達)が納得できる「あり方」を掘り下げるというのは、すぐに解像度が高まるものではないが、自分と、人や社会とのつながりという「実体」を築いていく中に、さらに解像度を高めるヒントは散らばっている。

だから、ある程度の「あり方」を定めたら、常に「実践」するために、意欲的に働いたり活動して、「やり方」を定めていくことが求められるし、自分なりに実体を築いていくと、「あり方」のブレも少なくなってくる。

人や社会とのつながりにおいて、同じ未来を見るための行動環境を整えていく「目的」を確認するための「あり方」だったはずなのに、いつの間にか、自分都合の「あり方」に酔ってしまうと、本末転倒となってしまうんだ。


◆まとめ


「やり方よりあり方」…いろんな意味合いを端折られているから、当然誤解も生まれやすい。
それを肝に銘じながら、丁寧に使っていこうと思う。

もしかしたら、誤解が生まれやすい言葉は、スローガンには適さないとも言えるので、いずれ最適化していく必要性も自分では感じている。

個人的には、他の場面でも何度も繰り返し唱えている…「生活者とは、自分を活かして生きる者でありたい」ということにリンクしているので、「まずは、個人として、どれだけ生き延びるかより、どう生き抜くかという主体性を見失わないこと」を強調したくて、「やり方よりあり方」という表現は、これからもしばらく使っていく。

いずれにしても…

「やり方」ばかりに頭を使って行動として迷走しているよりも、心を使って「あり方」の解像度を高めると、後からそれに適した「やり方」が見つかることがある。

また、「あり方」は、そうすぐ簡単に解像度が高まるものではないので、ぼんやりと見えてきたところから、次は体を動かすこと…つまり自分以外の人や社会とのつながりという「実践」の中から、解像度を高めて行かないと、心も疲れてしまう。

「生活の営み」「人との関わり」「社会とのつながり」の中で、一人ひとりが主体的にそれぞれの「実体」を築いていくと、人任せにない・迎合ばかりしない・本来の自分に蓋をするすこともなくなる人が増え、民度が上がっていくように思うんだよね。

Backstage,Inc.
事業文化デザイナー
河合 義徳

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