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「夏休み」という言葉の違和感

「夏休み」という表現が、しっくりこない。

『こんなに宿題を出されるなら、休みとちゃうやん!』と、初めての夏休みに入る小学一年生の時、担任の先生に猛烈に抗議した50年前の記憶が、今朝の夢に出てきた。

その後もコレに疑問を持ち、抗議する小学生は現れていないんやろか?
小学生によるデモ行進は起きていないんやろうか?
抗議すると、「遊んでばかりではいけない」と大半の大人から返ってくる。

宿題がないと遊んでばかりで学力が落ちる?…そんなことないよ。
勉強が好きな子は、何も言わなくても勉強もするし、勉強が嫌いな子は、遊びの中から学ぶことだってたくさんある。

大量の宿題が、勉強する習慣づけとなるという固定観念や大人達のエゴのほうが、遥かに恐ろしい。


自分でさせることはコレ!

特に低学年または小学生までの間は、親子共に見たこともない景色を探求したり、旅の情景を折り重ねて、たくさん対話をすることから、感性を磨く機会を設けたい。

感性は、脳と心の容量を広げるし、知識を知性に変換させる重要なリテラシー要素となる。
学力は、大器晩成型でエエやんか。
だから、小学生のうちは、「夏休み」は、親子共に「夏遊び」に変えてしまえ!

夏遊びで良いかわりに…起床や、身支度、時間管理も、すべて子供にさせることが肝要。

遊びたいことに向けて、やりたいことに向けて、起床や身支度、時間管理を全部自分でさせないとダメだ。
(親が何でもやってあげてしまう傾向は、娘のミニバスケ時代も、男の子の母親に多いことをよく見た。)

失敗の経験は、そうしたところから「自律」と「主体性」の育みになる。
やりたいことに向けての失敗だからこそ、自らその失敗を次の糧にしようとするんだ。

とにかく…
「夏休み」を廃止して「夏遊び」にしたい。

「宿題がなくなることで、家庭での教育の負担がかかる」とか、親が甘えたことを言うてたらあかんがな!
むしろ、大人も「遊べ!」ってことだ。
子供と一緒に遊んでいないから我が子との対話機会も、どんどん少なくなる一方なんだ。

「義務教育期間中は、多数決でものごとを決めずに、全員合意するまで対話を重ねてみろ!」と思う大男の「夏休み」に関する心の叫びでした。

<このコラムの続編がこちら>

Backstage,Inc.
事業文化デザイナー
河合 義徳

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