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子供達の主体性を育む土壌を奪う大人達

「自主的」に動く大人。
「主体的」に動く大人。

「その言葉の違いなど、どうでもいい」と言われがちだが…この二つの言葉の違いは、どうでも良いことではない。
能動的姿勢としては似ているが、何に対しての動機付けなのかが全くが違うからだ。

「自主的に動く」というのは、自分にも周りにも「やるべきこと」が明確なものを、誰に指図されずとも自分の意志で動くこと。
学生時代のクラス運営や部活では、あらゆることに「自主的に動く」生徒が良しとされ、頼もしい存在として周りの満足度も高い。

もちろん、それも大切なことだ。
だから、全く否定はしない。

一方で…

「主体的に動く」というのは、やるべきことがハッキリとしていない段階であっても、「やってみたい」「やった先の景色が見たい」という理屈抜きの強い衝動で行動することが多い。

「やってみるからこそ、その先のことは見えてくるものがあるし、やったことの先の意味は自分で見出す」という気構えでもある。
そのため、周りからの満足や賞賛を得たいのではなく、自分が納得できるまで探究したいんだよね。

この二つ…世間一般では、結果的に「自主性」ばかりが優先されてしまう点についてから述べよう。



■自主性が優先的なことの謎

「自主性」も「主体性」も、本来どちらも良い姿勢のはず…。
ところが、自分が想い描く秩序を乱されたくない人からは、「主体性」が際立つと「余計な事をする人」と厄介者扱いを受けることも多い。

そして「やるべきことをやった上で、やりたいことをしなさい。」と頭ごなしに主体的な姿勢を否定されてしまう場面も少なくない。
それによって、いつのまにか「やるべきことを自主性にやることが明確に認められた後なら、主体性にやりたいことをやっても良い。」という優先順位ができていないだろうか?

ただし、ここには、親の立場でも、教師の立場でも、上司の立場でも、自分の意図する秩序の中で、子供や生徒や部下を統治しておきたい本音が見え隠れしているよね…。
いわゆる大人都合のエゴが急に入ってくるんだ。

この社会風潮が主流なのは、今後の自分達の経済活動にも大きな影響を及ぼすものになっているので、個人的な想いを以下の通りしたためておく。

それは、「人育て」における「主体性が育まれる土壌づくり」の大切さは、経済活動における価値づくりと深い相関性があると確信しているからだ。

 

■主体性はどうしても少数派

世間一般的には、「自主性のある人」が、比較的「優等生」とされやすい。

「主体性のある人」は、結構な場面で「異端児」とされ…場合によっては、その場を統制したい人の意図に合わないと身勝手なことをされるため「問題児」扱いとなることも多い。 

ところが、「幸せな生き方とは何だろう」というアプローチで考えてみると、散々メンドクサイ人とされてきた「主体性ある人達」が、急に着目されるようになる。

主体的に生きる人は、社会に自分を合わせるのではなく、身近なところからでも自分に合う社会を創ろうとする。
誰かに支配されることを本望としていないから、周りから理解されない状態でも、どこ吹く風な雰囲気すら漂う。

一方、自主的に仕事することは良しとしても、ある組織での評価対象がそこしか認められていないとなると、いつの間にか会社(社会)に自分を合わせているだけのことに気づくこともある。

もちろん、後者の人でも、それで幸せに生きている人はいるだろう。
しかし、それはそうした社会で成功する人は、ほんの一握り。
それ以外の人は、本気で楽しめることを率先してやるより、人に合わせているほうが楽なことかと思いきや、気づけば周りに合せることばかりの疲弊が蓄積していくから、もっと楽になりたいと思うようになる。

その証拠に、「あなたが本当にやりたいこと…あなたである必要を感じる生き方とは何ですか?」と尋ねると…大半の大人が、急に不機嫌になるよね。


■主体性は自由経済の本質

主体性ある人の言動は、確かに突拍子もないこともあったりする。
多くの人の目には、得体の知れない人に映ったりね…。
それでも、そうした事はボクらは悪いことではないと思うんだよね。

なぜなら、誰にも支配されていない自由な創造性には、イノベーションが起きやすいからだ。
そもそも…自由経済活動とは、本来はそういうものだ。
そして、心豊かな経済とは、そういうものだ。

自分が創り出す「未来のあたりまえ」のこと…自分に合う社会をつくった中で自分がやりたい「あたりまえ」のことが、自分以外の人にとっては、大きな価値となるものを産み出すことにもつながる。

つまり、自分にとっての「あたりまえ」は、他の人にとっては到底実現できない「ありがたい」ものになり得る。

「あたりまえ」の対義語は「ありがとう」なのは有名な話として何度も唱えていることだが、元来、こうして主体的な大人達が創る価値が循環していくからこそ、経済は「ありがとうの循環」となっていく。

それが、自由経済の本質だ。
これも極論ながら、無支配主義のアナキズムこそが、自由経済の醍醐味なんだよね。


■主体性が消えていった背景

人口が増え続けいたという成長経済が前提となるこれまでの社会環境では、「誰もがわかりやすいもの」に対して「自主的に働く人」のほうが、確かに重宝されてきた。

そのため、今は利益の最適化のための効率化を重視したヒエラルキー社会…いわゆる「支配流儀な社会」が主流となっているのが実態。

しかし、急激な人口減が始まり、何百年も続いた成長経済の秩序が崩壊する環境では、これまでの価値づくりの常識が、通用しないことは明らか。
そうなると、今ある常識を疑い、未来のあたりまえを能動的に創りたくなる「主体性ある人」が求められるのは間違いない。

それでも、巷では随分『働き方改革』とは言うものの…「自主的に働く人」は評価されたとしても、「主体的に働く人」は、組織の同調圧力によって、今も打ち消されがちとなる。

部下から自分には理解できない「主体的な姿勢」が出てきた瞬間、組織管理者たちは、自分には欠けている「主体性」が彼らに垣間見れた苛立ちのような感情が、湧いてしまうこともあるんじゃないかな。

もしかしたら…それは職場だけのことではなく、常に「自分の管理統治下」に、生徒達や我が子を置いておきたい「学校」「部活」「家庭」でも、素直になれない大人のエゴがあるのかもしれないよね。


■誰でも昔は主体的だった

実は、「主体的な動き」ばかりのような時期は、誰もでも経験してきているはずなんだよね。

赤ん坊や幼少の時だ。

「やるべきこと」が明確でなくても、理由も理屈もなく、ただ「やりたい」から勝手にカラダが動く。
むしろ、幼少の頃までは、誰もがそんなことばかりだった。
「好奇心」のカタマリだったからだ。

  • 言われもしないのにつかまり立ちをしてみる

  • 言われもしないのに良い風を感じる方へ寄って行ってみる

  • 言われもしないのに口に入れてみる

  • 言われもしないのに道のないところに足を踏み入れる

その頃は、今日初めてできたことが、まだ自分は納得しているわけでもないのに、不思議と周りには褒められた。
もちろん、本能的な衝動が大半で、思慮深く動いたものではない。

しかし、やるべきことが明確ではないことを動いてみたからこその『経験』が自分を成長させたのは間違いない。

ところが、不思議といつの間にやら、賞賛の対象が変わってくる。
目上の人が理解納得する明確な「やるべきこと」を「自主的に動く」と、評価される。

一方で、意味のわからない「主体的な動き」を見せた途端…「一体何をしてんの!やらなあかんこともやらんと、好き勝手なことばかりして!」と取りつく島もなくなることすらある。

そして、「周りの子を見てごらん!あの子はやるべきことをしっかりやっているのに、あなたはなぜやりたいことばかりをやるの!」と、叱られる。
これは、相対的な比較の始まりで、幼少の頃から持っていた「多様性」すら奪われる瞬間だ。

結局、「主体性」も「好奇心」も「多様性」も、誰もが幼少の頃から持ち合わせていた要素だ。

散々、家庭や学校で「やるべきことをやってから!」と洗脳しておいて…何かあると「一体、あなたは何がしたいの!」という詰問に変わるなんて、困惑しかない。
さらに、「一体、自分は何がしたいのか、どう働いてどう生きたいのか」と、高校や大学に進学する頃に問われても、混乱しかない。

「今の学生達は、どうしたいのかがハッキリしていない」と指摘する大人も本気で「実は自分はどうしたいのか」と言える人は、極僅かという皮肉…
それどころか、そんなの自分でも判らない・人に伝えられるものがないという現実を受け入れる勇気すら無いオトナも多過ぎる今の社会。

結局は、誰もが幼少の頃から、本能的に持ち合わせていた…主体性や多様性や好奇心みたいなものは、ずっと他律的に蓋をせざるを得なかったから、自律的かつ主体的に言語化することができないのだ。


■過干渉が主体性の芽を摘む

結局、動いた本人が納得できるまで「やりたいこと」を探究する前に、親や先生が満足できる動きに矯正させられていくことになる。
極論を言うと、子供には罪はなく「自分のやりたいことが分からない」環境を造ってしまっている我々大人全員の責任なんだよ。

そうやって育っていくから、社会に出ても「自主的に動く」大人ばかりが優等生となっていく。

でも、実はシンプルなことなんだよね。

先に述べたように、「主体的に動く」というのは、誰もが童心に還ってみることからすると良いんだ。

もちろん、それまでに培われてきた「自主性」も良いバランスとしては役に立つ。
そして、場合によっては、やるべきことをやっていないとどうなるのかは、周りが干渉することなく自分で体感すれば、その経験値が適応能力を養うこともある。
まずは、主体的に「やりたいこと」を自分が納得するまで深掘りをしていくと、いつの間にか「やるべきこと」も主体的に克服していることもある。

そう考えると、とてもシンプルなことだ。

しかし、まずは我々大人が素直な自分に戻るのは、とても勇気が要るんだ。
やるべきことをやらないと、やりたいことをやってはいけないという擦り込みをされてきた世代だから、確かにカンタンなことではない。

しかし、そうだとしてもだ!…誰でも幼少の頃は、意欲的に目をキラキラさせて、主体的に動いてきた経験があるという認識だけは持っておこう。


■主体的につながりを築く

主体的に生きるようになり、独立開業してから、2022年の今年は会社設立20周年を迎える。
紆余曲折の中で、おかげさまで今日も自分に求められる仕事を本気で向き合い、本気で楽しく暮らすことができている。
もちろん、これまでの関係当事者の皆さんへの感謝しかない。

この間、「主体的に動く」個人事業主ともたくさん出逢ってきた。
そして、「主体的に自分のフィールドを創っているオトナ達がつながり合う」プロジェクトも試みる。

この構想を周りに語ってみると、反応が真っ二つに分かれるのが面白い。

「そんなことやって、何が生まれるのですか?」

自主的に動いてはきたが、自分がやるべきことが何かを示されないと、得体の知れないものに向き合うことに戸惑う人達からは、こういう返しが多い。

「そんなことやると、また何かを自分達で産み出せますね!」

主体的に動いている人達の反応だ。
主体的に動いてきた人達だけがつながると、得体が知れなくても、自分やりたいことをさらに見出すことができそうと、未来の自分に期待される。

両者は、とても判りやすい反応だ。
もちろん、どちらの反応が優れているかという話ではない。
人と優劣をつける必要もなければ、競い合う必要もない。
それぞれ自分が楽しいと思える道を、後悔せずに歩めば良い。

それで、そうしていけば経済の中心には、主体的にきて自分をかし続ける、つまり「生活者」が立つようになる。

これまでは、経済の中心には、常に資本力を中心とした統制社会ばかりが際立っていたため、「主体性」は後回しとなり、「自主性」が重んじられてきた背景がある。

「主体的に生きて自分を活かす生活者」が中心となり「ありがとうの循環」を経世済民の根幹に見据えたら、人に操作されるマーケティングやブランディングに踊らされなくても良くなるんだ。

とりあえず、ボク自身が人とつながった先の景色をどうしても観たいから、主体的に動くことはするよ。

間違いなくそこには、嘘のない自分で「ありがとうの循環」が有機的に産まれるということを確信している。

ボクらは「自分達に合う社会をコンパクトにつくる」ことからやるから、笑いながら「ありがとうの循環」を楽しむ。

自分にはウソをつかないロックな仕事観や人生観で、不文律な秩序を本気で楽しむだけなんで♪

Backstage,Inc.
事業文化デザイナー
河合 義徳

<追記>
「みんながやりたいことをやり始めてしまう主体性の集まりでは…秩序が乱れる」…本当にそうなんだろうか?
主体性ある人ばかりのチームや組織は、戦略や戦術などもほとんど不要になるんだけどね。(その代わり、明確な「旗(未来ビジョン)」は必要)
それについて語ったコラムはコチラ↓↓↓

“「人と違う」ということを、認められていないわけではない。 しかし、求められてはいない。 それならば、「人と違う」ということは、評価の対象にはなりにくいということになる。 個人が持つ感性や知性よりも、組織にとても従順で、正確な情報処理能力の高い人ばかりが求められる社会でしょ? それなら、「人と違うのが良い」という意識は、どうしても薄らぐよね。”

「納得できないことで得る空虚な安定」より

主体的にきて、自分をかし続ける者を「生活者」のコラム

企業不祥事がなくならない根本的原因

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#勝ち組より価値組
#自分を活かして生きる者こそが生活者
#ロックな仕事観
#この国の常識を疑ってみる

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