真似るとパクるの違い
自分の振り返り用として長年アウトプットしている記事では「似て非なる言葉」がシリーズ化してきたようにも思うが、今日も一つ。
先日クライアント先での定例会議で、社長がプロジェクトチームのメンバーに諭していた言葉にこういうものがあった。
「同業他社が実施している良いなと思うものを真似ることをして構わない。むしろ参考になるものは積極的に真似ることで、自分達のクオリティも高めて行こう!」
チームで今挑んでいる事の経緯からすると、良いタイミングでのお声がけだったので、組織の文化形成をデザインしているボクからも補足をした。
「真似ることは良いことですよね。パクるとは違うんですから。」
盗んだのか学んだのかの違い
「パクる」というのは、盗むことだ。
人のアイディアをそのまま使うだけだと「オマージュ」や「パロディ」にすらならず、単なる「盗作」となり、そこには自分のオリジナリティや自分なりの咀嚼もない。
したがって、いつまでも成長もなければ、信頼もされない。
「真似る」というのは、学ぶことだ。
真似る前に、自分達で立てた旗(未来ビジョン)に向けて、主体的にどういう変容をもたらせたいという意思を明確にして、優れた手本をヒントに自分達らしい独自のスタイルを創る意欲を示す。
したがって、実はクリエイティブなことであり、いずれ信頼もされていく。
ネット内の「言語由来辞典」にも以下の記述がある。
尊敬するデザイナーも同じだった
そのプロジェクトの会議では、運営に関わるボクらのチームの一人が直ぐに援護射撃をしてくれた。
「この会社のロゴマークをデザインしてくださった●●さん…私からご紹介したあの有名なデザイナーさんも、若い時は徹底して模写をする・真似をすることを追究していたそうです。」と援護射撃。
描く線、筆のタッチ、色のバランスなど、先人の表現から徹底的に本質的なところを納得するまで掘り下げていくことで、自分のオリジナリティを見出そうとされていたことが推察される。
したがって、いずれご自身によるデザインには、しっかりとした自分軸の裏付けや根拠も備わり、そのデザインを見た人の変容につながる行動環境を設計されている。
まさにその独自性と創造性が信頼にもつながる。
ただ「パクる」だけの人が提示するものには、誰かの「良さそうなところの上澄み」を盗んできたものだけであり、人の心を動かすことがない。
結果、本人にも成長はないし、他者からの信頼も得ることは無い。
上手くやろうとせず本気でやる
結局は、目的と主体的な意欲を持って、仕事に取り組むかどうかということになる。
その場を上手く凌ごうとして、作業をしていては信用も失う。
本気で真似るというのは、相当な努力が必要だが、いずれ信頼される仕事につながる。
実際、ボクも人前で語ることの大半は、先人の言葉の「受け売り」から始まっている。
しかし、その先人の言葉の本質は何かに関心をもって、自分なりに咀嚼して自分の心から発する言葉になっている可能性があるので、いつの間にか人の心が動くものになる。
もちろん、それも失敗の連続だ。
なかなか人の心が動くまでに到達するには、何度もアプローチを変えて表現を試みることも骨が折れる。
しかし、意欲的に挑んでいる失敗は必ず次への糧となるので、場数が必要。
今回の社長の発言は、集められたプロジェクトチームに「失敗する権利」をあらためて与えられたものだった。
このチームで人の心を動かすためには、まずは自分達の心を動かそうという鼓舞だったように思う。
そうした時間と空間に居合わせることができて、ボク自身もあらためて背筋が伸びた。
Backstage,Inc.
事業文化デザイナー
河合 義徳
似て非なる言葉シリーズ
「自主性と主体性の違い」
「権限と権力の違い」
「仕事と作業の違い」
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