合理的な歩み~言葉の混同は危険!
あまりに多い誤解
効率化と能率化と合理化…この言葉を、どれも「一緒くた」にしていないだろうか?使っている漢字が違うのだから、それぞれの意味も当然違ってくると思わないか?
しかし、文語よりも口語でのコミュニケーションでは「どれも似たようなもの」として、ごちゃまぜで捉えてしまう傾向がある。
それが擦り込まれて、脳が勝手に「同じようなもの」と思い込ませる。
いきなり話が逸れるが…「一緒くた」も、よく「いっしょくたん」と思っている人も多い。ボクも、少し前まで「一色単」と、間違った当て字を使っている者だった…(恥ずかしい)
これも、文語ではなく口語から耳にしたことがある言葉を文書にしてみて、漢字変換で出てきた「一色単」を目にし、「単純に一色にしてしまう」という感じかな?
そんな風に誤解している人があまりに多いせいか…「実用日本語表現辞典」には、わざわざ「一色単…一緒くたの誤り」と記載されているくらいだ。
合理化と効率化と能率化
いきなり脱線した話を、元に戻そう。
合理化・効率化・能率化は、ビジネス用語でもよく出てくる。
それにも関わらず、どれも似たようなものとして、一括りにされてしまっている風潮がある。
この言葉の意味の違いネット検索すると、バラバラな解釈も出てくる。
まさにこのこと自体が、世間でも誤解されたまま使用されていることを物語っている。
ボクの周りでは、経営者や管理職ほど、解釈も含めて、この言葉の意味をどういう意図で使っているのかは、明確にしておく必要性を感じる場面が、めちゃくちゃ増えてきた。
この言葉の意味の違いを理解しているとしても、その人が、どういう場面でこの言葉を使い分けているのか。
それによって、その人は何を重要視した事業姿勢なのかは、何を大切にして運営しているのか、その人の生きざままでもが浮き彫りになってしまうこともある。
そこで、自分も事業を営む立場として、自分達の想いを織り交ぜて自分なりの解釈プロセスをアウトプットしておくことにした。
1.合理化の本質
合理化と効率化と能率化。
この三つは、ボクの解釈では、まず大きく二つに分けられる。
「合理化」と「効率化・能率化」だ。
前者は「あり方」で、後者は「やり方」という分け方をしても良いのかもしれない。英語表現だと「あり方」は「be」「What for」で、「やり方」は「do」「How to」。
「やり方」は、部分的な機能そのものを「上げていく」ことを目指すことが多いが、一方で、「あり方」は、もっと俯瞰的で先を見据えた大局観みたいなもの。
表現を加えると、「効率を上げる」「能率を上げる」とは言うが、「合理を上げる」とは言わない。
「合理化」の意味は、今の自分達の立ち位置や振る舞いそのものが、論理的に正しいことなのかを、自分の道理に合うものなのかを自問自答し続けるものであるため、「上げていく」という感覚は馴染まない。
今、行っていること、活動していることは、なぜ私である必要があるのか。
なぜ私達である意味があるのかを問い続けることだ。
つまり、「合理化」は掘り下げていくもの、「効率化・能率化」は高めていくものだと感じている。
自分が進むべき道として、道理にかなっているかどうか…。
自分が進むべき未来への道筋としての「自分軸」と照らし合わせて、果たしてコレで良いのだろうか…。
これを問い続けていくものが「合理化」だと考えている。
このように、「合理化」と「効率化・能率化」は明らかに違う。
それでは…「効率化」と「能率化」はどう違うのか?
2.効率化と能率化の違い
この二つの違いは、ボクはこう捉えている。
お手紙を封書に入れる「封入」作業で例えると…
「効率を高める」のは、封入部数の必要数が5百部とした場合、それを何時間でできるのか…効率が高ければ早く作業終了時間を迎えるということ。
「能率を高める」のは、一定時間の間…例えば8時間労働では、何百部の封入ができるのかということだ。
クルマで例えると、100㎞の距離は何リットルの燃料で辿り着けるかという平均燃費は「効率」で、24時間で一定のサーキットを何周走れるかを競う耐久レースは「能率」ということになるかな?
3.効率と能率の掛け合わせは危険!
「効率」と「能率」の意味の違いこそ、最も混同されがちであり、この二つは明確に分けておく必要性を感じるのには、理由がある。
今、多くの職場で「生産性を高める」というアプローチで、この二つの掛け合わせを求められてしまいがちなことを憂いているからだ。
その「効率」も「能率」も上げるという掛け合わせは、疲弊しか生まれないからだ。
個人の創意工夫と努力により効率化を図っても、結局は勤務時間の「定時としては8時間労働」となっていることから、次のようなことを虐げられる事も実態としては多い。
早く終えたのなら未だ終えていない人の作業を手伝ってください
それだけ効率よくできるならさらに作業目標をを上乗せします
作業量を増やされたくないからと効率を上げない人は評価を下げます
この環境では、主体的に新たな価値づくりに勤しみたいと考えている働き手にとっては、モチベーションが下がるものとなりかねない。そして「あれ?それってうちの職場じゃないか」と思う人も多いんじゃないかな?
顧客に支持される価値づくり、他社と競争する必要もなく細く長く顧客に愛される環境づくりをしている会社は、「主体的に価値づくり」に勤しむ集団であり、「自主的に作業の効率化と能率化」を図っている会社ではない。
生産力の向上ばかりを意識したこのような職場環境で、時代の変化への適応力に養い、未来のあたりまえを創る価値創造力は上がるだろうか?
あらためて「主体性と自主性の違い」についても、多くの教育者、親、上司が再認識されておくことを、日頃から薦めている。
以前にもそれについて語っているコラムも、ぜひ参考にしていただきたい。
「何も考えずに、ただ言われたことを正確にミスなくやれ」という作業が毎日続くなら、雇用関係においても「お前の代わりなどいくらでもいる」「コレは私がやらなくても誰でもできる仕事」という不信感しか生まれない。
そもそも、この関係性なら、働き手は「正直者は馬鹿を見る」となり、創意工夫意欲は上がりにくい。
もちろん、チーム内で早急に仕上げなければならない作業が舞い込んできた時は、「効率化」×「能率化」が相乗効果が生まれることもある。
しかし、それはあくまでも一過性の緊急時のことであり、慢性的にそのような職場環境だと、誰でも疲弊する。
大半の人間は、心身ともに壊れていくんだ。
合理的な歩み
「効率化」と「能率化」の混同は、まあまあ怖い事だということを踏まえて、「合理化」の話に戻そう。
「誰がやっても同じ仕事」は、いずれは人工知能も駆使された機械化に委ねられる。
そもそも、今はまだそういう時代環境になっていないとしても…
今でも作業効率の良い人は、その日の「やるべき」タスクを自主的に臨んで早々と終えられるのなら、チームが掲げた企業使命や理念に向けて、その日から自分が主体的に「やりたいこと」に臨むことに充てられるはず。
しかし、勤務時間内の能率化に協力する同調圧力によって、効率の悪い人の「やるべき」ことまで再び自分に降りかかってきたら、誰だってモチベーションは下がる。
そもそも、「やるべきこと」が最優先とされ、「やりたいこと」は後回しとなる環境が続くと、いつになったら「やりたいこと」に取り組めるのだろうか?
自分達が「どこの誰にどのような幸せをもたらせたい」という「自分達がやりたいこと」「そこに自分達である意味がある」という旗を主体的に掲げたはずなのに、「やるべきこと」ばかりを自主的に行う人ばかりが評価される組織が、顧客に支持されるだろうか?
そのような現場では、事業者独自の価値創造力を高める本質的なことは空虚なものとなっている。
自分達の仕事が「合理的」ではないからだ。
利益の最適化こそが企業使命・ノルマ達成こそがサラリーマンとしての美徳であるという「歪んだ合理化」では、皮肉にも「非合理的な職場環境」を産んでしまうという本末転倒なことになる。
旗を明確に立てることができるマネージャーには、戦略や戦術も不要ということは以前のコラムにもしたためてある。
組織のリーダーは、「我々は、どういう人達(顧客)にどういう幸せをもたらせたいのか」という確固たる哲学に基づいて大局に立つ必要がある。
リーダーがそうやって立てる「旗」が明確なものでなければ、どうしても目先の利益のみに目がくらみ、働き手の情報処理能力だけを使おうとする。
たとえば…「テレワークにしてから、他社にシェアを奪われたから、うちは全社員テレワークは廃止して、生産性を上げる!」という舵取りをしているマネジメントをしているようなら、本末転倒なことであることに気づいていない滑稽な話だ。
見せかけだけの「旗(理念)」を掲げ、「何を実現したいのか」を働く人達に伝える努力もせず共感されていない職場環境は、どうしても効率と能率だけを求めがちとなり、「言われたことだけやっていればいい」というオペレーション…自分が同調圧力を笑顔で虐げていることに気づきにくい。
その姿勢は、働き手だけでなく顧客にも必ず見透かされるため、トラブルやクレーム・顧客離れも生じやすくなり、皮肉だが、効率や能率も悪化していく。
それはもはや、価値創造力を高めるどころか、マクロ的かつ長期ビジョンの観点では、衰退の一途だ。
結局は、自分達が掲げた旗(未来)に向けて、どうやって仕事をさせるかということが重要なのではなく、今日やっている仕事にどのような意味を持たせるのかを問う…それが美しいものであるかどうか、腑に落ちるまで問い続けることが「合理的な仕事」ということだ。
経営者や上司が、自分達の価値づくりが「合理的」であるかどうかを追求もせずに、組織や部下に「効率化」を求めるのは、ナンセンスなのである。
まとめ
1.キレイゴトで上等!
「キレイゴトでは儲からないだろう?」
この言葉で、ボクらはこれまで何度も揶揄されてきた。
しかし、「業界の常識が、世間の非常識」となっていることを、「業界よりも世間の常識」…つまり「未来のあたりまえを創る」ことへシフトチェンジしていくことで、小さくても良質な価値づくりに、確実につながっている。
その「実践力」だけは、負ける気がしない。
ありがたいことに、出逢いたいお客様だけと出逢えるようにすらなっている。
効率と能率ばかりにこだわり、同業他社との戦いに勝つ「勝ち組」には、何ら関心がない。
ボクらは、自分達の歩む道が道理に合う美しいものかどうかにこだわり続け、非効率でも非能率的であっても、顧客に支持される「価値」をつくる「価値組」だからだ。
だから、相も変らず「キレイゴト上等」で突き進むのみ。
「勝ち組ではなく価値組」というのは、そういうことだ。
2.心理的安全性の担保
もちろん、「価値組」の裏側の事情では、何一つ楽なことはない。
なぜなら、どの事案も明確な「旗」を立てる必要はあるし、この合理的な自問自答が、とても難しいんだ。
それでも、価値を創ることが本気で楽しいから、続けられる。
また、働き手も、言われたことを自主的に臨む人だけでなく、「旗」を目指して自分だからできること・自分だからやりたいことを主体的に挑む人が育まれる土壌づくりも必要となってくる。
言われたことをやっていれば上司から褒められるという文化が浸透してしまっている企業文化を変えるのは、並大抵の努力では実現不可能。
結局は、「合理的な歩み」にすることができるかどうかは、長い年月の歩みということだ。
さらに、これまでの表現に何度か出てきているが、自分達のその歩みは「美しいものであるかどうか」を常に確認し合う。
「美意識は最大限の安全性の担保」となるからだ。
そこには、豊富な「知識」よりも、美しくて豊かな「感性」と「知性」が求められる。「知識」は誰が応えても同じ答えになるが、主体的に生きている人が持っている「知性」は、人によって答えが違う。
だから、主体的な人が集まるチームは、いつもステキな対話が生まれる。
ステキな対話が重なると、必ず「美しい文化」が形成されていく。
文化は、一人では形成できない。
文化は、対話によって生まれる。
その対話は、いつも「旗」を目指しているから、論点がズレにくい。
だから、本気で楽しく価値づくりに勤しむようにもなるんだ。
「キレイゴト」は、何一つ楽な事はないが、楽しくて仕方がないんだ。
「そんなのキレイゴトでしょ?」と一蹴する人ほど、心理的安全性が担保されたチームは絶対につくれない。
Backstage,Inc.
事業文化デザイナー
河合 義徳
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