(仮)マッチングアプリ 2.鷹宮
ゆかりと知り合ったのは鷹宮が33歳になる少し前の頃だ。
鷹宮は大手部品メーカーで人事採用をしている。
仕事柄、大学のキャリアセンターや研究室に顔を出すことが多く、何校かはしごすることもあり、そんな折には大学の学生食堂で学生に交じって昼食をとることも多かった。
同僚には学食に行くと言うと変な顔をされることもあったが、鷹宮は学食の雰囲気が好きだった。学生たちの声を近くで聴くことで、彼らが今どんなことに興味を持っているのか、面接等では見られない素の様子を知ることができ、より間近に感じることができたし、なにより最近の学食はそこら辺の定食屋よりよほど安くて旨かった。特に鷹宮のお気に入りはC大学の学食で、八王子方面への訪問があると上手くスケジュールを調整して、大学内の食堂やカフェテリアで1、2時間ほど、食事をしたり本を読んだりして時間を潰していた。
ゆかりと知り合ったのもC大学の学生用カフェテリアだった。
ちょうどその日は夏休み期間で、校内の学生が少なかったので、カフェテリア内にいるのは、彼女と数名の学生のみだった。彼女は鷹宮と同じハンバーガーのランチセットを食べ終えていた所だった(ここの名物だ)。見るからに学生という年齢でもなかったし、大学職員にしてはスーツの着こなしがこざっぱりとしていたので、もしかしたら自分と同じ採用担当なのかもしれないと思って、鷹宮の方から彼女に声をかけてみた。
突然声を掛けられたので驚いた表情をしたが、学生ばかりで話し相手もいなくていつも暇だったと言い、鷹宮の話に付き合ってくれた。
彼女は歴史社会学や移民研究を専門に講師をしていた。鷹宮には全く興味の持てない分野であったが、退屈な話から面白いエッセンスを引き出すのが鷹宮の持ち味だったので、その特性を活かして話を膨らませた。
「ここへはよく来るの?」と聞かれたので、C大学は学食を食べによく来ると言うと「こんな田舎まで変な人ね」とくすくす笑ってくれた。
連絡先を交換し、また時々来るので一緒にご飯を食べないかと提案してみた。
その後、何度か大学内の食堂やカフェテリアで会って、夜の食事に誘った。そんな風にしてゆかりとの交際が始まった。
元々、お互いの勤務地が離れていることもあり、彼女と会う頻度はさほど多くはなかった。また、付き合うようになってからわかったのだが、彼女には潔癖症の気があり、長く人と一緒にいることにストレスを覚えるタイプのようだった。だから会社勤めではなく、気ままに好きな研究ができる大学講師の道を選んだ。
かなり自由奔放な所があり、2、3週間まるで連絡が取れなくなり、鷹宮が心配していたところ、仕事を兼ねてヨーロッパを旅行していたなんてことがざらにあった。
美人ではあったが、その突飛な性格と潔癖症のせいで男性と交際しても長続きすることがなく、30歳を超えても結婚の話は一度も出たことがなかった。また本人も特に結婚は望んでいないようでもあった。二人で将来や結婚観について話すこともあったが、お互い結婚に向かない性格ということで結論が出た。
そのような関係が1年ちょっと続いた中で、例のウィルスが流行した。
二人とも海外旅行と外食が趣味であった為、家でじっとしている時間は苦痛でしかなかった。彼女が猫を飼いたいと言ったので、その流れで同棲をすることになった。
同棲にあたっての条件が厳しかったので物件選びは本当に難航した。
①ペット可であること
②お互いの職場の中間距離であること(鷹宮は新宿勤務、ゆかりは八王子の大学に勤務していた)
③寝室が分かれていること(彼女はどうしても一人でしか寝ることができない)
物件選びには2ヵ月ほどかかったが、ようやく希望どおりの物件を見つけることができた(元々シェアハウスとして使われていたマンションだった)
なんとなくわかっていたことだが、暮らし始めると同時に彼女とはレスになった。もともと潔癖症なこともあり、セックスが好きではないと言っていたが、猫という存在ができ、鷹宮も近くにいるため、それ以上を望まなくなったようだ。何度か誘ってみようとも思ったが、彼女が嫌々セックスをしていることを想像するとそれ以上誘う気力もなくなってしまった。
そのうち、鷹宮は外で性欲を処理するようになり、そんな中でマッチングアプリに登録するようになった。
これが、高宮孝一が作り出した『鷹宮』という人物像である。
◆
リビングからゆかりの怒鳴り声が聞こえてきた。また息子を叱っているのだろう、今日で2回目だ。
うんざりした顔でリビングに行くとゆかりの何しに来たんだという視線が突き刺さった。息子は怒られすぎてもう泣く寸前のところだ。
「今度はどうしたの?」と高宮は小学3年生の息子のひろきに聞いたが、ひろきが口を開く前にゆかりが「何度も忘れ物するから叱ってんの!口出しする暇があるなら一緒に学校に忘れ物取りに行ってよ!」と激しい剣幕でまくしたてられ、口を挟む隙を与えられなかった。
息子と学校へ歩きながら、なんで忘れ物をしちゃうのか聞いてみたが、本人も、すごく注意しているのに忘れちゃうからどうしようもないよ。と半ば諦めている感じがした。
小学校に上がってから忘れ物や勉強に遅れることが多くなったので、もしかしたらADHDの傾向があるかもしれない、とゆかりに話してみたことがあったが、そんなはずはないと一切聞き入れなかった。塾にもついていけなかったので今は週3回家庭教師に来てもらい、学校の復習を見てもらっている(かなりの出費だ)。
ゆかりのヒステリックな性格は結婚当初からのもので、何度も離婚を考えたが、その度に自分が盾になってあげないと息子を守る人間がいなくなってしまうと思い、その一心だけで結婚生活を継続していた。ゆかりとは子供が生まれた年にはセックスを断られ寝室が別になり、以来夫婦としての営みはおろか手すら握っていない。
レスになって最初の数年は風俗店で性欲を解消していたが、その後はマッチングアプリで知り合った女性と関係を持つようになった。
当初は正直にプロフィールに既婚者と登録していたが、どうせ会ってやるだけだからマッチしやすい方がいいだろうと思い、鷹宮という架空の人物を作り上げた。彼の実年齢は40歳だったが、誰も35歳の設定を疑う者はいなかった(元々高宮は実年齢よりかなり若く見られた)
◆
そんな折に希子と出会った。
プロフィール画像がかなり好みだったのに併せて、割り切りを匂わせる紹介文だったので、これは行けると思ったが、話を進めるうちに彼女の性格がわかってきた。どうやらかなり”天然”のようだった。
いつもどおりレスの彼女がいる設定で割り切って会えるかと思っていたが、どうにも上手く進みそうになかった。ただ、彼女とメッセージのやりとりをするのが楽しかったので、たまにはいいかと思い、セックス抜きで会ってみることにした。
今にして思えばだが、初めて会った新宿のカフェが既婚者であることを打ち明ける絶好の機会だったと思う。まだ、お互いを知らない頃だったし、無傷で終わるだけだ。
ただ、どうしても言えなかった。
一目惚れに近い感覚だった。ここで既婚者であることを明かせば二度と彼女に会うことはできないという確信もあった。
それが高宮の判断を鈍らせた。
◆
取引先にゴッホ展の特別招待券をもらい、ほとんど何も考えずに希子を誘った。他に誘うような相手もいなかったし(他にも女友達はいたが、昼間からデートに誘うような関係性ではなかったし、おそらく彼に絵画展なんかに誘われたら気でもおかしくなったかと思われただろう)それに、なんとなく彼女はゴッホが好きそうな予感があった。
その日の彼女はオリーブグリーンのコートの中にグレーのタートルネック、細身のパンツでいつものようにヒールの高いブーツを履いていた。髪をハーフアップにしていて、耳元にはハンドメイドっぽい花型のピアスを付けていた。いつも思うが、着こなしがとても上手だった。品が良いが嫌味な感じがなく、小物のセンスが良かった。
美術館なんかに誘って退屈していないか少し心配で彼女の表情を見ていたが、真剣な眼差しで絵を見ていて、1点1点彼女なりの画評のようなものも解説してくれて聞いていて飽きなかった。
本当はこの日に既婚者であることを打ち明けるつもりだった。
だから事前にリサーチして、おあつらえ向きのバーを探しておいた。
そこまでしていたが、いざ彼女を目の前にするとどうしても言えなくなってしまった。今日の楽しい1日を台無しにしたくなかったし、ゆかりとの息が詰まるような日常とは正反対の楽しい時間に完全に陶酔していた。
「次に会った時に言えばいいか。」意を決して入ったバーだったが、2杯目をオーダーする頃にはそう思ってしまっていた。
帰り際、希子がフラフラに酔っぱらってしまったので抱きかかえるように階段を上がった。近くで彼女の香水のいい匂いがした。
どこかで嗅いだことのある匂いだ。
独身時代に長く付き合っていた彼女と同じ匂いだったかもしれない。
そんなことを考えていると、酔っぱらった表情の希子と目が合った。気が付いた時にはもう彼女とキスをしていた。
それ以上行こうかとも考えたが、これからホテルに入れば終電を逃して朝帰りになる。ぎりぎりの理性で自分を押しとどめた。
◆
その日から何をしていても、彼女のことばかり考えるようになってしまった。他のことが手につかなくなり、仕事でもミスが目立つようになった。
彼女が美術館の時に付けていたピアスを失くしてしまったと落ち込んでいたので、ファッションに明るい友人に同じものを探してもらった。ピアスはすぐに見つかった。クリスマスも近いし、彼女にプレゼントしようと決めていた。
自分でも、もう行くところまで来ている感覚はあった。
いずれ既婚者であることはばれることだし、その時は希子にショックを与えることになることもわかっていた。ただ、どうしても彼女との楽しい時間を失いたくない気持ちが勝り、ずるずると関係を続けていた。
「クリスマスの日は実家でパーティするからひろきと私の送り迎えよろしく」とゆかりに言われた時は、チャンスとばかりに希子をデートに誘った。
彼女が学会で神戸に行って留守なので食事に付き合ってほしい、と自分でも自然なくらいスムーズに嘘をついた。
クリスマス当日、ゆかりとひろきを義実家に送り届けると、すぐに希子と待ち合わせをしている横浜まで車を走らせた。
ゆかりも義両親も、送迎役の高宮を家に招き入れることはなかった。
「ご苦労様。今日は泊ってくから」それだけだ。自分が家族として受け入れられていない現実にショックを受けた時期もあったが、最近ではそんな感情も無くなってしまった。
むしろ、冷たい扱いをされるくらいの方が罪悪感なく外で遊べると思った。
クリスマスもお正月もお互いの実家に顔を出すことはなくなっていた。ゆかりはもう5年近く私の両親と会っていないのではないだろうか。
長期休み明けに家庭が上手くいっている同僚や友人たちの楽しそうなエピソードを聞くことが最近では苦痛に思えていた。
だが、そんな暗い気持ちも待ち合わせ場所に現れた希子の笑顔で全てどうでもいいと思えるようになった。
コートのポケットの中には希子に渡す予定のピアスを入れた箱が入っていた。高宮はそっと手を入れ、その感触を確かめた。
(3.三木君 に続く)