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(仮)マッチングアプリ 3.三木君

 
  大学院を卒業するまでの25年間、一度も恋愛というものをしたことがなかった。



大学在学中に後輩の女の子に「恋愛感情を理解することができない人が弁護士になれるとは思えない」という厳しい言葉をかけられたことがあった。
後からゼミの同級生に「あいつお前に気があったんだぜ?気づかなかったのか?」と言われ、全く気が付かなかった自分が怖くなった。
本当に彼女の言う通り、このまま弁護士になっても、知識だけで人の気持ちを理解できない法律家になるのかもしれない。

現役時代の司法試験に失敗し、教授の紹介で入所した大手法律事務所で教育係の椎名さんにその話をすると思いっきり笑われた。
「大丈夫よ。弁護士になる人達なんてほとんど大人になるまでセックスのひとつもろくにしたことないような人たちばかりだもの」と。
三木もつい先日、大学時代の友人に半ば強引に川崎のソープに連れて行かれ童貞を捨てたばかりだったので思わず耳まで赤くなってしまった。

椎名希子さんは三木の6個年上でこの法律事務所では弁護士資格を持たないいわゆる使い走りのような存在だったが、美人で気立てが良かったので所長に気に入られ、事務員として長く勤務していた。本人は弁護士になるつもりはないようで、書類の回収や電話の取次ぎ、また三木のような新人の教育係を担当していた。

希子さんはなんでも話してくれる人だった。家族以外でこんなに自分に心を開いてくれる女性は希子さんが初めてだった。希子さんにそう伝えると「あなたが聞き上手なのよ。あ、これ弁護士にすごく向いてるんじゃない?」と言ってくれた。司法試験に失敗して落ち込んでいたが、もう一度勉強してみようという気持ちになった。

希子さんから事務所を辞めると聞いた時は目の前が一瞬真っ暗になった。
ただ、あなたなら大丈夫と言われ希子さんの持っていた仕事の殆どを自分が引き継いだので、辞めるわけにはいかないと思った。それに希子さんが働くことになった書店兼カフェは、都内でも一番の売り場面積を誇る大型店で座り心地の良いソファーが自慢だった。三木はすぐに勉強場所を地元の図書館からこのカフェに切り替え、休日は朝から閉店時間まで通った。
希子さんの休憩時間になるとコンビニで買ってきた弁当を一緒に食べた。希子さんは毎日自分でお弁当を作ってきていた。
なんだか、事務所で働いていた時よりも彼女を近くに感じることができた。




希子さんに初めて高宮という男の話を聞いた時、嫌な予感がした。
希子さんは好きな男ができると突っ走る傾向がある。レクサス男の時もそうだ。車の助手席に女物のシュシュが落ちていても、家族のものと言われた話を信じ込んでいた。そして、その高宮という男はレクサス男以上に胡散臭い気がした。だから一度会ってみたいと希子さんに頼み込んだ。

しかし、実際に会ってみると思っていた印象と全く違っていた。
希子さんと仕事帰りによく行っていた池尻大橋のイタリアンレストランで彼を紹介してもらったが、三木の想像していたような胡散臭い人物ではなく、むしろ初対面の三木が話しやすいように色々と気を使って話をしてくれていたように感じた。
ただ、どうしても本命の彼女がいるのに他の女性と遊ぶのは理解できないと伝えると困った顔をしていた。もう少し突っ込んでみようかと思ったが、希子さんに足を蹴られたのでやめておいた。
帰り際、さりげなく三木がお会計を済ませようとしたところ、店員に既にお代を貰っていると言われたので、高宮に全額渡そうとしたが、頑として受け取らなかった。

なんとなく、彼を怪しい人物だと疑っていた自分を恥ずかしく思った。
それと同時に絶望に近い感情を持った。二人の距離感を見ると既に深い仲になっているような空気感があった。
希子さんの耳には高宮がクリスマスにプレゼントしたというピアスが光っていた。希子さんがそのピアスを失くしてしまったことは三木も知っていた。必死になって探したがどうしても見つからなかったので替わりに最近読んで面白かった小説をプレゼントした。何だかそんな自分が惨めに思えた。




 クリスマスの夜から、高宮の心はずっと重いままだった。既婚者であることを隠しているのは勿論だが、同棲している彼女がいるという設定すら、それを知りながら自分と会っている希子の気持ちを考えると、これ以上彼女に嘘をつき続ける事はできないと思った。
だが、自分が既婚者であることを告げられれば彼女はとても傷つくはずだし、結局彼女のもとを去るのであれば何も言わない方が心の傷は浅くて済むかもしれない。
一方で最低な不倫男として彼女の中で清算されれば、私のことを引きずることはないのかもしれない。

ゆかりと別居することも考えた。離婚して希子と生活することができればきっと毎日楽しいだろう。趣味も話も合うし、価値観もゆかりより高宮に近いと思った。
ただ、どうしても息子のひろきの事が頭をよぎった。きっとひろきは自分を見捨てたと思うだろう。そう考えると、今の生活を捨てることができない。そんなことを考えながら重い足取りで家路についていたところだった。



「高宮さん」




自宅の前の暗がりで急に誰かに呼ぼ止められ、心臓が飛び出るほど驚いた。

声の主は、三木君だった。先々週に希子から紹介された元同僚の男の子だ。なぜ彼がこんなところにいるのか全くわからず気が動転した。
高宮が声を出せないでいると三木君の方が先に口を開いた。
「後をつけるような真似をしてすいません。」
その時、家の中からゆかりがひろきを怒鳴りつける声が外まで響いてきた。
高宮は、声のする灯かりのついた窓を見つめ「申し訳ないけど場所を変えさせてもらえないかな?」と提案した。

そのまま三木と高宮は黙って近所の公園まで移動した。

「申し訳ないんですが、高宮さんと食事した日に同じ中央線だったので後をつけてしまったんです。高宮さんの自宅の表札も見ました。奥さんとお子さんがいますよね」

高宮の表情を見て、三木は話を続けた。

「希子さんには話してないです。今日はそのことでお話に来ました。高宮さんはこの事を希子さんに話すつもりでしたか?」

高宮は先ほど思い悩んでいたことを三木に話した。

「まだ話をする前で良かったです。僕からひとつお願いがあります。
お願いというか、これはある種の脅しだと思ってください。僕は少なからず法律の知識があります。今のあなたの置かれた状況から僕は法的に2つの訴えを起こすことが可能です。
一つ目は希子さん側についてあなたを貞操権侵害で訴える方法です。きっとあなたの家庭は崩壊します。
もう一つは、あなたの奥さん側について、希子さんを訴える方法です。こちらもあなたへのダメージは相当大きいと思います。」

三木の話を聞きながら高宮は自分でも顔から血の気が引いている感じが分かった。

「でも、正直どちらの手段を取るつもりもないです。高宮さんがこれから僕の言う条件を飲んでくれさえすれば、それ以上は何もしないです」

高宮がゆっくり頷いたので三木は続けた。

「希子さんとの連絡をこの一週間で少しずつ減らしてください。
電話もしないでください。希子さんから来たLINEに返信する頻度も減らしてください。
一週間後、つまりは来週の火曜ですが、LINEで彼女と結婚することになったのでもう連絡をとれないと告げてください。彼女のLINEが既読になったのを確認したらLINEをブロックして連絡先を削除してください。
いいですか?」

「わかったよ。あとはどうすればいい?」と高宮が答えた。

「あとは?とはどういうことですか?」

「だって、それだけじゃ何の制裁にもならないだろ」

「…制裁を加える気なんてないですよ。僕はただ友人として希子さんがこれ以上傷つく姿を見たくないだけです。高宮さんが子持ちの既婚者だと知ったら彼女はきっと自己嫌悪に陥りますよ。なんて男を見る目がないんだろうって。だからそのまま彼女の前から去ってください。もしこの約束を守れなかった場合は遠慮なく先ほど伝えた手段を取らせてもらいますよ。」

「わかった。言うとおりにするよ。」

高宮は力なく答えた。




高宮と別れた帰り道、三木はなんとも言えぬ胸のつかえを感じていた。
希子さんのためと自分に言い聞かせていたが、結局、自分のやったことは邪魔者の排除だ。
自分が何もしなくても、いずれ高宮は既婚者であることを希子さんに打ち明けていただろう。いつまでも隠し通せる嘘でないことは、高宮本人が一番わかっていることだ。
その事実を知れば、希子さんはショックを受けるし、おそらくは二度と高宮と会うことはなくなるだろう。

ただ、心のどこかで、もしかしたら希子さんが高宮との不倫関係を受け入れてしまうのではないかという気持ちがあった。だから本命の彼女を取った方が彼女にとってはより諦めがつく結果になるだろうと思った。
例え1%でも高宮と希子さんが継続する可能性を残したくなかった。

そんな打算的な自分が本当に情けなかった。



彼からの連絡が日に日に少なくなっていくことを感じていた。
以前は、向こうから送ってきた朝の「おはよう」も夜の「おやすみ」も
私から送らないと返ってこなくなった。

だから「彼女と結婚することにした」というメッセージを見ても、なんとなくそうだろうなという気がした。
彼からのメッセージにショックを受けてると思われたくなかったので、なるべく間を置かずに「また弱った時に連絡しちゃいそうだから、連絡先消すね。ブロックしておいてください。さようなら」と打った。

メッセージの既読が付いたので、すぐにLINEをブロックした。
あとは連絡先を消すだけというところで、手が止まってしまった。

瞬間に悔しさと寂しさと怒りと虚無が一気に押し寄せてきた。
ふと今自分がどんな表情をしているか気になって鏡を見た。
意外にも笑っていた。
もはや笑うしかないのかもしれない。

しばらく、希子はその体勢でスマホを握りしめたまま、動けないでいた。

何分間そうしていただろう。電話の着信音がなっていることに気付き、慌ててスマホの画面を見た。

三木君だった。

そうだ。もう高宮から電話がかかってくることはないのだ。

三木君に高宮のLINEのことを話すと、受話器の向こうで沈黙していた。優しい男の子だ。なんて声をかければいいのか分からないのだろう。
いいんだよ。もう終わったから。来週ケーキでも食べに行こうよ。甘い物が食べたいんだ。三木君の息遣いが聞こえた瞬間、耐え切れず通話の切りボタンを押した。


そこから涙がこぼれ落ちてきた。
これは止まりそうもない。

もうこれが最後だ。
悲しいことはこれで最後にしよう。


希子はずっとやめていたタバコを一本吸った。






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