いま頭の中にあることをひっくり返したような記事です【エッセイ・弦人茫洋2021年7月号】
このマガジン「弦人茫洋」は、毎月一日に「長文であること」をテーマにして書いているエッセイです。あえて音楽以外の話題に触れることが多いです。バックナンバーはこのリンクからお読みいただけます。
今月は、いま僕の頭の中にあることを、だらだら書いてみます。
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今日から7月。2021年も、もう半分も終わった。この半分で自分は何を成し遂げたのか。それを二倍にしたら一年間の実績として誇らしいものになるのか。半分とは、多いのか少ないのか、イマイチよくわからない量だ。
誰しも自分に都合のいいように物事を解釈するものだと思うし、それが決して悪いことだとも思わない。他人を巻き込みだすと様子は変わってくるけど、自分の中で完結する分には、円滑に物事を進めるためにものの捉え方を工夫するのは必要なことだ。だから、たとえば夏休みの課題図書が100ページ中50ページ終わったとき、残りあと半分だけだと、「半分という量」を少なく見積もる傾向にあるように思う。実際には岩波文庫みたいにビッシリ文字の詰め込まれた難解な50ページだったとしても、あと半分と思えばなんだか軽く感じる。
ところが、状況が変わって例えば自分の好きな本が残り50ページだったら「よし、あと半分」とはあまり思わない。「もう半分しかない」。自分に都合のいいように解釈するなら「まだ半分もある」が正解に思えるけど、これもあまり見かけない考え方だ。これってちょっと不思議。
学生の頃バスケをやっていたけど、バスケの試合でも似たような経験をしたことがある。練習したフォーメーションがうまく実践できているような楽しい試合は、あっという間に終わる。10分×4クォーターの試合が、体感で3秒くらいに感じる。逆にこちらの戦略が全て裏目に出てハマってしまうような試合は永遠に終わらないもののように思えるし、ハーフタイムまで来てそれこそ残り半分でも、まだ20分もあんのかよ!と怒鳴りたくなる。でも、まぁ半分かと思えばなんとかやり過ごせなくもない。
ライブでもそういうことは起こるもので、自分が経験した中で今までで最高だったライブは、アドレナリンが出すぎていたのかステージ上の記憶がほとんどない。緞帳が上がる前、スモークの漂うステージでメンバーと円陣を組んだのは覚えているけど、その次の記憶は最後の曲のアウトロのギターソロで、ステージの真ん中から客席を眺めながら「ああ、もう終わるんだ」と悟った瞬間だったりする。そこで「まだあと30秒くらいある!」なんて思わないし、終わるものは終わるし、終わるからこそ楽しいって話にもなる。
当たり前の話だが、総量が決まっているからこそ半分という概念も生まれるもので、半分というのは終わりあるものに対してしか考えることができない。イマイチ自分の好みに合わない映画を見ているとき、映画館だと時計やスマホも見られないなか、あとどれくらいで終わるかなんて失礼なことも考えるけど、「あと半分だ我慢しよう」と思えないのは、いつ終わるかを知らないから。それで言うと2021年は本当に半分終わったのか?よくわからない気持ちになる。
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いきなり突飛な話をするけど、自分の感覚だと実はまだ西暦2014年くらいの感じがする。今は2004年ですと言われたら、それはさすがに時代がずれすぎてるでしょうと思うけど、2021年って、ちょっと、いくらなんでもそこまでまだ未来じゃないぜみたいな。その中間と考えると2014前後の数字を今の世の中に当てはめるのが、なんかちょうどいい感じがする。そういう感覚があるので、2021年も半分終わりましたと言われても、いやまだそんなの全然先の話でしょ?と思う。こんなこと考えている人は他にいるのだろうか。。。
そこまで極端でなくとも、時間の感覚が間延びしている人は少なくないんじゃないかと思う。感染症のせいで2020も2021もイマイチ違いがよくわからん。本当にただ数字が1違うだけという風に、どうしても映ってしまう。実際には、そのせいで変化した環境や失ったものも沢山あるのに、あまりにも間延びしているせいで現実味を感じにくいのかもしれない。もちろん人によって状況は異なるから一概には言えない。ただ外に出れない、スタジオやライブハウスを利用するのも厳しい自分の置かれている状況から観察すると、そういう風に感じるということ。良いとか悪いとかつらいとかふざけんなとか言ってる場合でなく、ただ違うという、ただそれだけのこと。
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5月末から開始した第二回の「あなたの記事を曲にします」企画は、現時点で7曲が完成。応募いただいた方が17名なので、まだ半分に至っていない。お待ちいただいている参加者の方々には恐縮ですが、でも、どこかちょっとだけ安心する自分もいる。
なぜなら記事から曲を作るという取り組みはとても楽しいから。毎回フレッシュな気持ちで、応募いただいた記事を順番に読ませてもらって、そこには必ず新たな発見がある。たくさんの想いや世界観を見せていただいて、この記事が一体どんな曲になるのだろうと、自分で作るのに妙な話だがワクワクする。その最初の段階に自分がいることが嬉しかったり、曲ができたとき一番最初に聴くのも自分なので、音楽の根本的な楽しさを改めて味わわせてもらっているような気分になる。
そんな楽しい取り組みなので、終わってほしくない気持ちもあり、まだ半分以上ある!と思うときほっと安心する自分がいるのは否めない。
どんな曲作りでもそういう要素はあるものだけど、「記事から曲」では特に強くそれを感じる。普段はそもそも曲を作ることありきなので、そもそも曲を作るということが大前提にある(当たり前の話だけれども)。こういう想いがあるからこういう曲にしたい、だからこうしてほしい、といったように。
「記事から曲」の場合は、その記事を書かれた時点で曲にすることを予定していなかったものが多いから、言葉や音楽のおおもとにある考えや感情をやり取りできる、そんな雰囲気が好きなのかもしれない。それって音楽によるコミュニケーションの原点にあるようなものだとも思うから。
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ひとりの人間が大切にすることって一生のうちに何度か変わるもので、僕の場合、もっと若いころはとにかく目立つことを大切にしていた。目立つことによってその先にあるかもしれない何かに繋がるとか、そんなんじゃなくて、ただ純粋に目立ちたかったから。
今大切にしているのは、ひとつひとつ丁寧に向き合うこと。それは仕事の音楽でもnoteの音楽でも同じであるべきで、それが同じであることを大切にしているということもできる。その想いが伝わって喜んでいただけたり、コメントで感想を頂けること。実際これに勝るものはなく、それだけでやっていてよかったなと思うし、曲ができて皆さんにコメントを頂いたときには涙にじませつつニコニコしてる。
目立つことだけが重要だと考えていた若い頃の自分に言わせれば、そんなものは綺麗ごとだと切って捨てられそうだ。それはそれで一つの在り方であって、とにかく目立ちたいんだというようなヤツは、誰かにかけてもらえる「ありがとう」の言葉を受け取らないどころか丸めて平気でドブに捨てるくらいできないと釣りあわない。同じ人生の中でその両端を経験したからか、他人のそういう振る舞いを見ていてもそんなに目くじらを立てないというか、そこに一貫した想いのようなものが見えるならそれはそれでいいじゃんって思える。わかるやつにだけわかればいいんだと叫ぶバンドにも、「そうか。わかった。がんばれ!」と言える。誰かを悲しませたりしていないなら、何かを大切にしている時点でその人って素敵な人だと思うから。
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さて、今月はこんな感じで自分の頭の中にあるものを脈絡なく吐き出したけれども、その過不足についてはいまいちよくわからん。俺の頭の中だって、ツマラナイ映画と同じように終わりがどこにあるかわからないから、この記事に書いたことがその半分なのか、全部なのか、1割なのか、測りようがない。
ただ、今日ここに書いたようなことは、これからも脳内メモリに保存され続けるであろう考え方だと思うし、それをうっかり消してしまったりしないように生きていく姿勢をどっちかといったらこれからは大切にしていきたいね。