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春【エッセイ・弦人茫洋2021年4月号】

 
 自分はどちらかと言うとネガティブな人間だ。少なくともポジティブな性格ではない。報われない努力のほうが世の中で圧倒的に多いことも知っているし、誰かが落ち込んでいるときに「頑張ろう」なんて無責任なこと、口が裂けても言えない。


 ポジティブでないというよりは、臭い物に蓋をするポジティブが嫌いと言ったほうが正確かもしれない。努力すれば必ず報われるなんて、誰がそんな無責任なことを軽々しく言えるというのだろう。

 たとえば、受験。努力しない受験生は基本的にいないはずなので、努力は必ず報われるなら受験生の全員が志望校に合格しないと話の辻褄が合わない。しかし定員がある以上、受験生は誰しも不合格になる可能性に晒されている。

 その人が落ちたとき、どのような言葉をかけるつもりなのだろう。努力は必ず報われるというなら、報われなかった人に対しては、「お前の努力が足りなかったんだ」とか、「あんなもの努力じゃなかった」と言うしかなくなるじゃないか。努力すれば必ず報われるなんて言っておきながら、その努力を根本的に否定するなんて、、、そりゃあんまりだぜ。なあ?

 、、、だったら、いくら努力したってダメなときはダメだし、努力が報われる人間のほうが少ないと俺は正直に言う。

 落ち込んでいる誰かは、もう限界まで頑張ったあとなのかもしれない。いや、限界を超えて挑戦し続けたけど上手くいかなくて失敗した人なのかもしれない。凡人たる俺ごときには想像も及ばない血の滲むような努力の末それすらも報われず途方に暮れている人なのかもしれない。そういう可能性を無視して誰が「頑張ろう」なんて気安く言えるだろう。「みんな頑張っているから一緒に頑張ろう」なんて。俺だったら、缶コーヒー渡して一緒にのんびり煙草でも吸うかな。いや、それすらも憚られて、何もせず素通りするかもしれない。そっとひとりにしておこう、と。


 こういう性格は、別な言葉で言うと天邪鬼ということになる。ひねくれているというか、斜に構えているというか。世の中に絶望していると言ったら気取った嘘になる。もっと凡庸で、取るに足らない、つまらないもの。これだけでも俺がポジティブな人間でないことは伝わるだろう。ポジティブな人間はきっと、そんなこと考えない。自分のことを「凡庸」などと評価する人間の一体どこがポジティブだというのだろうか。唯一、俺にポジティブな要素があるとしたら、それは「自分はポジティブな人間ではない」ということを自覚している点だ。そう考えると、ポジティブというよりは能天気な楽天家といったほうが近いかもしれない。ネガティブというよりは、単に現実的だというだけかもしれない。



 せっかくの春だというのにこんな暗く重たい話から始めたのには理由がある。自分はあまり春が好きではないのだ。年度もクラスメイトも予算も何もかもが新しくなる春。誰もが何かに向かって新たに動き始める春。冬眠から目覚める。凍っていた時間が解凍される。すべてが再始動する。新しい世界へ向かって何かに挑戦するのは素敵なことだが、その理由が「春だから」というのが気に食わないのかもしれない。俺はまだ寝ていたい。


 ほとんど同じ理由で朝よりは夜のほうが好きだし、インスタよりはTwitterのほうが好きだし、大人数でわいわい宴会するよりはサシ飲みのほうが好きだ。そういや、Twitterも最近インスタ化してきてるせいであまり開いてないな。意図的なものが苦手なのかもしれない。コーヒーの写真なんか撮って何か面白いか?人それぞれの価値観だからそういうのが好きな人がいることは全く構わないし、これを読んでいるあなたがコーヒーの写真を撮ってバチバチに加工してインスタにアップするタイプの人だったとしてもそれで嫌いになるということはないが、まぁ、俺は、コーヒーの写真を撮ろうと思ったことはない。



 となると、ポジティブが嫌いというよりも、意図的に加工されたものが苦手だという話になってくる。



 自分は音楽家なので、音楽についても同じことを考える。自分が作る曲は、やっぱりマイナー調の暗めな曲が多いように思う。感じたことや思ったことをそのまま表現するから暗い曲になる。だからといって年中ネガティブなことを考えているわけではない。創作意欲が湧くのはマイナスな気持ちになったときのほうが多いということである。失恋ソングなんてものはその代表例といえるかもしれない。昔、長年付き合った恋人と別れたときに作った曲があるが、そのサビの歌詞が我ながら強烈だった。

ダイニングテーブルに置き去りにされている
冷え切った明日を チンして食べたら
甘い昔の記憶 口の中広がって
とても呑み込めず 涙が出た


 自分の歌詞なので身も蓋もない要約をしても構わないだろうか。この歌詞で言いたかったことは「別れて辛い」とか「もう会えないなんて嫌だ」というようなことになる。思うに、それをそのまま言葉にしにくいからこそ、何かに喩えて言葉に託したいからこそ、マイナスな気持ちの時のほうがクリエイトは捗るのだと思う。もしも状況が真逆で、長年にわたる片想いを遂に実らせた春のよき日とかだったら、ギターなんてそっちのけでデート行っちゃうもんね。曲なんか作ってる場合じゃねぞ!浮かれて。



 話がだいぶ脇道に逸れたが、ここまでを一旦整理すると、俺は春が苦手で、その理由は行動や行事にいちいち作為的なものを感じてしまうから。


 そんな春嫌いの俺でさえ、去年の4月は寂しかった。世の中が大混乱して繁華街はゴーストタウンみたいになるし、誰とも会えないし、徒歩30秒のコンビニへ酒を買いに行くことすら憚られた。季節は進むのに人々は家の中へ逆戻りさせられて、目覚めかけたのにもう一度強制的に冬眠させられたかのような。

 あんな春はもう二度とごめんだ。


 そんな巣ごもり生活の中で救いになったのは、皮肉にも「今は春である」という事実だった。少しずつ気温が上がり服装も軽くなって、毛布は不要になったしアイスコーヒーを美味しく感じるようにもなった。そんな変化の中で仲間とオンライン飲み会をして、世の中が落ち着いたらあれをやろう、これもやりたい、いやそれもいいね、なんて他愛もない希望を語った。そのうち実現できたものは残念ながら数えるほどもないが、それでもあの時は、とりあえず前を見ている「ふり」をしているだけでも、本当に前を向いている気分になれた。

 今大事なことは、その「前を向いているふり」をできるかどうかということにかかっている気がする。目を上げることが出来ないなら、せめて体だけでも前へ向けていられるか。体だけでも前を向いていれば、気持ちは後ろを向いていたとしても、周囲からは前を向いている人という風に映るはずだから。俯いていたとしても、少なくとも前を向こうという気分になることはできたんだなって思えるから。その勇気を知って自分も前向きになれるはずだから。そうやって皆が少しずつ手伝って、ちょっとだけ前向きになれたら、世界はもう少しだけ優しくなれるんじゃないかな。そして、春という季節は、臭いものに蓋をしているかのようだと俺が冒頭でこき下ろした春という季節こそは、実は前を向いている「ふり」をするには最も適している季節なのかもしれない。


 4月に前を向いている「ふり」が出来た年は、気づいたら本当に前を向いているものだ。


 では、自分にできることはなんだろう。まずは自分のために前を向いている「ふり」をしようと思うが、まさか物理的に文字通り前を向いている「ふり」をして何かが変わるわけではなく。言うだけ野暮ってもんかもしれないが、精神的な姿勢の喩えだ。

 音楽家である自分は音楽で前を向いていきたいと思っているけれど、音楽において前を向いている「ふり」をするということは、フィクションで構わないからポジティブなうたを作るということだと思う。うそでも前を向けるような、力強く誰かの背中を押すようなことはなくても、黙ってそっとそばに寄り添っていられるうたを。


ジュンペイ



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ジユンペイ
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