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音楽とことば
こんにちは。ギタリストのジユンペイです。
今日の記事は、ひそかに人気を頂いている高速バス移動中シリーズ。
高速バスに乗っている時間を利用して書いているというだけで、高速バスにまつわる話を書くわけではありません。
今日は「音楽とことば」について、つらつら書きたいと思います。
音楽にはたくさんの可能性があるし、魅力的な表現です。
音楽理論なんか学ばなくても、ひとは音に対してある程度まとまった感想を持ちます。
ベートーヴェンの『運命』がクラブで流れることはほとんどありません(先のことはわからないから断言はできないけれども、少なくともこれまでにそんな話は聞いたことがない)。
秋川雅史さんの『千の風になって』を聴いて底抜けに楽しい気分になるという人にも滅多にお目にかかりません。
ピンポイントではないにせよ、音楽がある特定のベクトルをもった感情や景色を表現できることは、間違いないと思います。
一方で音楽には絶対に表現できない領域があります。
それがことばです。
1ドル130円になったという情報を過不足なく的確に表現できるインスト楽曲は存在しません。
これは、後にも先にもあるはずのないことなので断言できます。
音楽がこうした言語表現に向かないのは、それによって表現するものがそもそも「情報」ではないからです。
恋人にふられて悲しい気持ちを表す音楽は世の中にいくらでもありますが、「AさんとBさんが破局したという情報」を伝える音楽はありません。
音に対して切ないとか悲しいという感想を抱くことはあっても、それが失恋なのか、死別なのか、旅立ちなのか、そこのところは、音楽だけによって表現することのできない領域です。
そう考えると、音楽表現にはある種の余白が存在するということが言えますが、余白が存在するのはなにも音楽に限った話ではありません。
ことばによる表現であっても、余白が存在する分野はあります(なんなら、余白を感じさせることを目的として書かれるものだってたくさんある)。
たとえば詩歌。
先ほどの例に戻ると、1ドル130円になったという情報を過不足なく伝える詩は存在しません。
それは、わざわざ詩にする意味がないからであって、ここでもやはり、情報伝達手段と文化的な表現はそもそも出発点が異なるということが指摘できます。
情報ではなく何を伝えるのか。
ことばになる以前の衝動のようなもの。音に変換する以前にこころで見た景色。
いずれもことばや音に変換する前段階であって、それを表現するためにことばや音楽があるのだとしたら、音楽はことばであるし、ことばもまた音楽であると思うわけです。
暗い雰囲気の曲を聴いて、テーマが失恋であると断定できないように、何通りもの解釈が成り立つ詩もあります。
それは表現者の巧な技術というよりは、詩や音楽に対して自分が抱いた感想を通して世界の見方が広がることに意味があるように思います。
同じ小説を何度も読んでいると読むたびに感想が違ったり、長年聴いてきたお気に入りの歌詞がある日突然違った意味に解釈できたりするのは、そういうことかなと。
これについては、「そういうつもりで聴く(or読む)姿勢」ありきだったりすることもあるので、若干ちがった話になってきますが
だとしてもやはり、1ドル130円を違った風に読むということは出来ません。その情報に対して抱く感想は人それぞれでしょうが、情報そのものを何通りもの解釈で読むということはできないからです。
この文章もそういった意味では、詩とは呼べないけれど、情報として書いているつもりはあまりないです。
そんなことを最近かんがえています。
さて、高速バスは渋滞を避けて普段と別ルートに進みました。
ここには余白はないようです。
外出規制のないGWは3年ぶりだとか。
どなた様も素敵な連休をお過ごしください
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