余裕【エッセイ・弦人茫洋2021年10月号】
大人になるとは、どのようなことを指してそう言うのか。
成人することは大人になることの一部であって、全部ではない。
年齢を重ねることも、大人になることとそっくりそのまま同義かと問われたら、黙ってうなずくことは難しい。
今の若い子は大人だよねなんて会話もちらほら聞こえてくるし、なんなら、未成年の子供が「もっと大人になれ」という趣旨の説教をされている場面だって、よく見かける。
大人になるということに、腑に落ちる説明を加えられる人がどれだけいるのかわからないけれど、個人的に思うのは、大人になることの一つの例は「余裕を持つこと」ではないかと。
それは、精神的な余裕であるかもしれないし、時間的な余裕であるかもしれないし、金銭的な余裕であるかもしれない。あるいは肉体的な余裕だってあるのかもしれない(余分な皮下脂肪を「余裕」と捉える前向きな考え方ができるならね)。
さまざまな「余裕」のうち自分にとって特に意味を持つ余裕は精神的な余裕であると思っている。時間的な余裕や金銭的な余裕は、精神的な余裕を生み出すために必要な材料くらいにしか思っていない。余った時間やお金を使って何かを味わったり体験することが精神的な余裕につながるという考え方である。
そういった意味では、僕にとって大人になるということは、「ある特定の目的のためだけにその場所へ行くこと」と言うこともできる。ネットで調べればすぐわかるようなことにわざわざ時間をかけて、現地へ赴き、実際に体験してみるということ。これってちょっと贅沢だ。カニを食べるためだけに北海道に行って、食べたら帰ってくるみたいな。すくなくとも、そうしようと思えばそうできる環境にいるということは、贅沢なことだと思う。
僕の場合、夕食を食べるためだけに北海道に行くような金銭的余裕はないけど、もう少し身近な贅沢ならできますよねってことで、ただ彼岸花を見るためだけにドライブへ出かけたことがある。
2020年の秋のこと。目的地は、埼玉県日高市の巾着田曼珠沙華公園。日本最大級の彼岸花群生地であり、その美しさは「赤い絨毯を敷き詰めたよう」だとか、「この世のものとは思えない美しさ」などと評されている。
なぜ彼岸花を見に行きたいと思ったのかは覚えていないが、何か直感でそう感じたのだろう。いずれにしても、直感で見たいと思ったものを、その最大級の地へ、思いついた瞬間に向かうことができるのは、やっぱり余裕があるからできることだし、大人のすることだと思う。
ドライブは趣味の一つで、ストレスが溜まっているときにはナビを使わずにドライブをすることが僕のストレス発散方法だったりする。ナビを使って車を運転する行為はドライブではなく「移動」である。僕の趣味は「移動」ではない。
その日も、当時住んでいたさいたま市のマンションを出て、道路標識を見ながらなんとなく日高方面へ進み、日高市内に到着した後はコンビニの店員さんに聞き込みしたりして、巾着田へは案外すぐについた。ナビがないと遠出が不可能なんじゃなくて、自分の力で調べるのが面倒くさいだけなんだと思う。みんな。きっと。
巾着田は拍子抜けするほどの田舎だった。赤い絨毯なんてどこにも見当たらなかったし、この世のものと思えないどころかこの世のど真ん中みたいな田舎だった。自然豊かで美しい場所であることには間違いなかったが、それはただの埼玉県日高市で、ただそれだけだった。
せっかく来たのに回れ右して帰るのも残念なので、園内を散策しがてら事務所の係の人に聞きに行った。彼岸花、もう終わっちゃったんですか?早いすね。オレ、ここ初めて来たんスよ。
係のおじさんが答えるには時期のせいじゃないんだと。感染拡大防止の観点で、今年は花が咲く前にあらかた刈り取っちゃったんだよと。逆に言えば、毎年それだけ多くの観光客で賑わっているということだ。
背に腹は代えられぬと言っては言葉が違うのだろうか。いずれにしても、2020年の巾着田に、「余裕」はなかった。
地元の人は、その手の事情をよく知っているものなのか。園内は人もまばらで、時折すれちがう人々は、僕と同じように赤い絨毯やこの世のものとは思えない美しい景色を求めて迷い込んだ都会人のようだった。
散歩道を少し外れた陰にいくつか彼岸花が咲いていた。巾着田には、およそ500万本の彼岸花が群生しているという。いくら係のおじさんが頑張ったって、500万本すべてを刈り取ることなどできなかったのだろう。申し訳なさそうに咲いていた数本の彼岸花たちはおじさんの誤差みたいなものだ。僕はそのうちの一本をじっと見つめた。500万本の仲間が刈り取られるなか間違って生き残ったその彼岸花は、情熱的に赤く咲き誇っているというよりも、ここぞとばかりに曝される恥ずかしさで赤面しているような、切ない赤色だった。その赤は確かに美しかった。こんな赤を見られただけでも遠出した甲斐があったというものだ、人ごみに押されて忙しなく赤い絨毯の写真を撮りまくるよりもうんと価値のある体験だと思った。
せめてもの記念にと縋る気持ちはわからなくはないが、すれ違った都会人のうち何組かは、刈り取られずに咲き誇っていた彼岸花を刈って持ち帰っていた。もったいないな、と思った。そのものを手元に残しても思い出にはならないのに。どうせ刈られるなら500万本とともに刈られたほうがましだったであろう彼岸花の赤色が目に焼き付いた。ここにもまた、余裕はなかったようだ。
自宅に戻ってシャワーを浴びてから、飲みに出かけた。もちろん一人で。ここにはまだ、余裕があります。
生ビール大ジョッキはいつもと変わらない美味しさで、昼間は赤い絨毯なんか見れなくてよかったかもと思った。この世にありながら、この世のものとは思えないようなものを求める姿勢がそもそも間違っているのかもしれない。僕らがついつい圧倒的な美みたいなものを求めてしまうのは、それもまた余裕のなさの表れか?杯を重ねバーボンに問いかけても、黙って聞いてはくれたけど、それらしい答えを返してくれることはなかった。
バーボンのお代りを注文したら、もう少ししか残っていないので、と店員さんは別なウィスキーを一杯サービスしてくれた。そのまま帰っては飲み逃げみたいでカッコ悪いからもう一杯飲んでから帰ろうと思ったものの、そこで注文する二杯目がサービスしてもらったウィスキーより安かったらダサい。かといって、サービスしてくれたお酒の値段を聞くのも野暮だ。ここには、やっぱり余裕はなかった。
結局のところ赤い絨毯を見られなかったことは残念だったのだけど、同時にそれはそれで悪くない体験でもあった。むしろ、普段なら真っ赤に染まっているはずの場所が真っ青な状態を見られたのだから、かえって貴重な体験だったとさえ思う。
赤い絨毯はまたそのうちね。いつか見られるよ。
個人的には、これくらいの余裕の持ち方がベストだと思っている。
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こういうコンテストに参加すること自体初めてだし、お花にまつわる文章を書くのも初めての体験でした。
お花メインのエッセイじゃなくなってる感じは否めないけど、台風やら何やらで暇なときにでも読んでもらえたら。
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