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ハブられ者のエチュード

遠い昔、しかし覚えている程度には新しい。そんな昔話をしよう。
人には人との相性というものがある。特に集団の中ではいかに自分との相性が良い相手を確保できるかで後の立場が変わる。端的に言えば、さっさと友人を作った方がハブられないと言うことだ。
一度グループを持てば、さながら縄張りを得た獣のように彼らは同じ仲間と行動を共にする。そんな姿を見てきた。こと学園生活ではソレがより顕著だった。放課後、チャイムと同時に動くのは部活や用事などがある者達だ。活力があって、自分のすべき事を分かっている。私は彼らが羨ましかったのだと今になって思う。放課後、暫く残るのは用事まで時間が余っている者達だ。居場所があって、行動に順序をつけられる。そんな余裕のある姿に、嫉妬しなかったといえば嘘になる。絶えない嫉妬と謎の焦燥感を抱えた放課後、いよいよ人が消える時間まで残る逸れ者が私だった。
この場に残る理由などなかった。かといって帰りたくない理由もなかった。動くのが辛いと言うほど怠惰でもなかったし課題を済ませてしまおうなんて計画性も持ち合わせていなかった。ただなんとなく、理由などないと言う理由に固執していただけであった。けれども呆然と席に残り続けるのも不気味だと、人目を気にする器用さはあったので適当に携帯を触っていた。
1人が好きな性分だから、そうしていた。でもそうしていたらハブられてしまうから、何かを待っているような姿をとっていた訳で。
孤立を望む一方で半端に協調性を持っていたから、姿だけの待ち人は生まれた。用事があって残っているだけだ、忙しいから残っているだけだ、と無い理由を作り上げては集団に馴染み、同時に孤独を堪能するという使い所のない器用さが育っていく。
人の流れはまるで濾過装置だと思う。目的を持った人は消え、理由なき者が残る。私は後者だった。しかし頑なに残る形だけの待ち人は他にも居て、グループ形成に馴染めなかった精神的なハブられ者は、皮肉にもその者ら同士で集まるのだった。
中身のない会話。適当な相槌。会話を楽しむ一方でどっか行けと思っている。そんな心の乖離が嫌いで嫌いで、大好きだった。放課後だけに形成されるグループは良くも悪くも続き、友情と判断するにはあまりにも歪な時間だったように思う。されど類は友を呼ぶ。理由はない、目的もない、ボッチでもない、でも精神的には孤立しているそんな人種。時間制限のある友達は集団の中で孤立したいと言う需要に合っていた。
いつしか姿だけだった待ち人は、本当の待ち人に昇格する。ただ、その事が何だが悔しかったので相変わらず携帯を適当に触っては、用事があって残っているだけだ、忙しいから残っているだけだ、とその場凌ぎの即興劇に縋った。曰く、別にあんた達のことなんて待ってないんだからね。ここまで来るとただのツンデレである。でもはそれは相手にだって言えた事だ。似た行動をとるやつは似た思考回路を持っているのだから、きっとそうだろう。