湿った左手
それはいつもの散歩道。
ここ数日続いた雨が明け、やっと換気が出来るぞと事務所の窓を開けた時のことである。
「偶には外の空気を吸ってきてはどうでしょう」
という彼女の勧めにより、もはや何日振りかも忘れた目的のない外出を楽しんでいる。ゆとりのあるズボンにお馴染みのパーカー、ポケットには小銭の多い財布と携帯のみを詰め込んでいる。
右利きが故か、持ち物は身体の右側に置いておきたくなる癖がある私は上着の右ポケットとズボンの右ポケットそれぞれに財布と携帯を仕舞う。そのため体の右側に重心が集まる感覚がした。なんとなくバランスの悪さを感じ、これまたなんとなく、左手を上着の左ポケットに入れて歩くことにした。
顰めっ面で、猫背で、片手をポッケの入れたまま、のしのしと歩く私の印象は悪い。目的がないから足取りは迷い気味であるし、寝起きだから服装も髪型も整っていない。行ったり来たりを繰り返しているから不審がられ、通学途中らしい小学生のネタになる。
可笑しい、外出した方がストレスが溜まる。
「お日様を浴びないとカビちゃいますよ」
などと茶化された私だが、既にカビそうだ。子供特有の高い声がキャッキャと頭に響く、全く朝から元気なことだ。そのまま無自覚な悪意に飲まれて遅刻してしまえ、なんて湿気った脳で呟いた。このままあの子達に変なあだ名をつけられる前に、さっさと避難する方がいいだろう。丁度この先を少し行けば人気の無い公園なのだから。
都心だが人気の無いその場所は昔から私のお気に入りだった。目的のない散歩と称してはいたが、無意識の半分はこの場所を目指していたのだろう。今となっては雑草と撤去された遊具跡しかない寂れた公園だが、出来た当時は手入れも行き届いており活気もあった。ブランコ、ジャングルジム、鉄棒などお馴染みの遊具は利用者の減少に伴い使用禁止の張り紙が貼られるようになった。テープで巻かれた遊具に最早利用価値はない。連日子供の笑い声で満ちていた場所は、次第に風に靡く木々の音のみが残されたのだ。
ふとそんな過去を振り返りつつ辿り着いた公園は、概ね記憶の通りで変わりはなかった。撤去の跡が残る地面。しかし、地面中央に広がる大きなブルーシートは初めて見た。位置を見るに砂場を覆うようにかけられている。確かに砂場の撤去には手間がかかる上、張り紙を貼る場所もないだろう。広げられたシートの四隅、その上にはやや大きな岩が置かれている。使用禁止の応急処置にしてはいささか雑なような気もしなくはない。シート越しでも伝わる砂場の凹凸も激しく、せめて被せる前にある程度平らにしておくべきだろうと心の内で批判していると、ある違和感に気がつく。ブルーシートの表面が乾いているのだ。
ここ数日は雨が続いていた、であればブルーシートの表面には水溜りが出来てもおかしくは無いだろうに、凹凸の激しいブルーシートのは水の一滴も残っていなかった。加えて四隅に置いただけの岩だ、雨上がりに誰かが適当に敷いたのだという推理はすぐに立った。こんな場所でピクニックでもするのだろうか、景色も日当たりも悪いこの公園で。そんな訳はないだろうに、冷やかしのような考察は止まず気がつけば私は岩を一つ退かしていた。だって気になるじゃないか、ちょっと見て戻すだけなら10秒もかからない。それにこのまま帰ったら何の発見も情報もない散歩になってしまう。(元から目的のない散歩がテーマなのだが)風が一段と強く吹き、公園を囲む木がザアザアと雨ではない音を立てる。
捲り上げたその先には、果たして何もなかった。
若干濡れた、凹凸の激しい砂場だった。全くもって何を期待していたわけではないが詰まらない、とシートを上げたままの右手を下げようとした時、凹凸の溝に鈍い灰色がチラついた。やっぱり何かあるじゃないか。捲っただけでは見え辛いので一度シートを半ばまで持ち上げ、そのまま折り畳む。するとそこには1つのトンカチと白いビニール袋の塊が3つほど埋まるようにあった。何気なく左手に取ったトンカチは片手で扱えるサイズだ。錆だろうか、先端から下にかけて汚れが目立つ。何にせよただの、手入れの行き届いていない工具に違いはない。続いてビニール袋だが、大半はしっかりと埋められている上に結び目が異常に固く、中を覗く事は出来なかった。恐らく作業に使う道具でも詰まっているのだろう。すっかり興味を失った私はトンカチを元の場所に戻し、半分に畳んでいたブルーシートの縁を摘み上げた。
バサバサとシートが硬い音を立てながら砂場と工具を覆い隠す時、公園の奥の方、入口から遠い場所に立つ人影を見た。青い帽子を深く被ったその人物は間違いなくこちらを見ており、思わずどきりとした。公園内の使用禁止遊具を弄った自覚があるからだ。もしかしたらこれから砂場を撤去する担当の人だったのかもしれない。このブルーシートは一応の目印として敷いていただけなのかも知れない。急速に組み上げられていくいくつもの仮説に、私は居た堪れたくなり、急いで岩を乗せ手についた砂を叩き落とす。もう一度顔を上げ、先ほどの人影を探すも既に出て行ってしまったのか見つけることはできなかった。胸に燻る罪悪感に苦い顔をしながら帰路に着く。子供たちは学校に着いただろうか、帰り道はいつも通りの静けさだった。
「児童が一名、行方不明らしい。」
ある日囁かれた物騒な噂を聞く、その時までは。