スロー・インプット(ゆとり時代)
捜査官は容疑者をゆったりと泳がせていた。何も急く必要はない。1パーセントの見込み捜査も持ち込まない。そいつが現代的なコンプライアンス。誤認逮捕はかなわない。あくまでも慎重に、捜査はゆったりと行うものだ。容疑がはっきりと固まるまでは見失わない範囲で泳がせる。200年、300年、たっぷりと時間をかけて。積み上げられた捜査資料の中身は殴り書きのままになっている。整えるには早すぎる。(そういう時代だ)
容疑者は逃げきれない時間の中を泳ぎ続けるしかない。ひと時は詩情の湖を泳ぎ、ひと時は芸能の田圃を泳ぎ、季節が巡れば湘南の海を泳いだ。一通り泳ぎ疲れると職人の世界にも飛び込んだ。多くの魚に触れて感化されたようだった。
寿司職人の修行もまた急がない世界だった。80年、90年とも言われる修行のはじまりは板場にはない。まずはお絵描き帳を広げて魚の絵を描くことから。情熱はゆっくりと温めなければならない。(そういう時代だ)
「たこですかね」
捜査員は密かにお絵描き帳の上を注視している。
人生は長い。
(ゆっくりいこうよ)