東京都写真美術館での「本橋成一とロベール・ドアノー 交差する物語」、招待券をいただいて(Nさんありがとう)最終日に駆け込みで行った。私の「兄弟」だと勝手に思っているドアノーさんの、愛とよろこびに溢れる写真を堪能した。
会場のところどころの壁に、ロベール兄と本橋さんの言葉が書かれていた。ロベール兄の言葉の随所に「joy」が出てきて、その写真とあいまって、あたたかい心持ちになった。
ただ、「あれ?」と思った翻訳がいくつかあった。ロベール兄が「ちょっと訂正しておいてよ」と言っているように感じたので、厚顔無恥を承知でここに書いておく。
まず本展示のキャッチフレーズのようなこれ。公式ウェブサイトにも書いてある。
「相手をこよなく愛してこそ、写真を撮ることが許されるのだ―― ロベール・ドアノー」
こんな「愛さざる者撮るべからず」みたいなことを言うのはロベール兄らしくないなと行く前から思っていた。入場してすぐに入り口付近の壁にある英文を見てみた。
下段は当方訳。
原文はフランス語だと思うが、少なくとも英文には「許される」みたいな意味合いは感じられない。直訳すれば「写真撮影を可能にするのは、被写体への深い愛」。
文脈によっては、「被写体に惚れ込んじゃうから写真撮ろうと思うんです」くらいのニュアンスだったのかもしれない。
ただし、もしこれが、たとえば、他の写真家が撮れないような炭鉱労働者の写真をあなたはなぜ撮れるのかといった質問への答えだとしたら、たしかに「許される」のようなニュアンスはあったかもしれない。
次に、同じく壁にあったこの言葉。
「写真は、時間とともに、本のページのあいだに挟まった小さな押し花を思い起こさせるような力を担っているのだ。」
これは誤訳だろう。
言葉を補いながら意訳すると、本に挟んでおいた小さな花を時が経ってから見つけたとき、挟んだ当時のことを思い出すのように、写真を見ると、撮ったときのいろんな思い出が蘇るものだ、という意味だろう。ロベール兄らしく愛らしい言葉だ。
最後に、ロベール・ドアノーの言葉をいくつか紹介する。
ロベール兄でも70年必要だったのか。ちょっと安心した。