飽和する写真表現だが、これがあるからおもしろい
写真を仕事、そして表現としてやっていると、正直、近年の飽和状態に絶望する。
デジタルカメラより前にはまだブルーオーシャンだった写真表現のマーケットは、今日ではブラディレッドオーシャンだ。2000年代初頭に高額だった写真作品もどんどん値下がりしている。
極端な話、もう写真の新しい表現の可能性なんて、新しい彗星の軌道を見つける可能性くらい低いんじゃないかとか思わないわけでもない。
来年の個展開催が決まっていて、それに向けて少しずつ準備をしている過程でいろんなプランが浮かぶが、「いやだめだ」とすぐに消える。それもひとえに、やり尽くされている表現ばかり思いつくからだ。
かつては専門技術だった写真撮影は、いまや誰にでもできる技術となった。子どもは言葉を覚える以前に写真を撮るようになり、インターネットを使ったことがない80代の母もカンタンスマホで写真を撮る。Instagramをひとたび開けば、おびただしい量の表現が流れてくる。敷居が低いにもほどがある。
こんな写真表現だが、その敷居の低さに面白みがないわけではない。それを主宰する「光の時」で実感した。
「光の時」は写真講座だが、技術的なことはほとんどやらない。技術的じゃないから、習字のように誰かの手本をまねるようなことはしない。上手下手がない。
たとえば27期の今期は、アートを全員で鑑賞し、そこから得たインスピレーションをもとに制作する。鑑賞したアートを模倣するわけではない。あくまでヒントにするのだ。だから着眼点も自由、解釈も自由、発想も自由、表現の仕方も自由。制作のテーマさえ自由だ。
すると、コンセプトに着目して発想を展開させる者、モチーフに着目する者、展示方法に着目する者など、十人十色の解釈と展開がある。
ところで、近年すこしずつ注目されるようになってきていることに「認知特性」がある。
世界を知覚し、記憶し、思考し、表現するとき、人それぞれ得意なやり方がある。それが認知特性だ。学校教育などでは現時点ではほぼほぼ無視されているが、実に十人十色なのだ。
ある人は主に視覚を使い、ある人は言語を使い、ある人は聴覚を使い、ある人は身体を使って知覚、記憶、思考、表現をする。
「光の時」では毎回、その認知特性のちがいがお題の発表に如実に出る。手本をまねるわけではないから、視覚が立つ者は視覚的に表現し、言語が立つ者は言葉で、聴覚、身体が立つ者はそれらで表現する。
その発表を観て聴くのが、とても豊かで美しい時間なのだ。ああ人はこうもちがうのか、同じ国に住み、同じ言語を話すけど、実はすごく多様なのだと深く感動する。
そのとき、写真の敷居の低さが役立つ。誰にでも扱える写真を中心に据えるからこそ、それぞれの認知特性、それぞれの個性にもとづく表現が可能なのだ。
何か新しいことをやってやろうと大上段に構えることなく自分の表現したいことを表現したいようにすれば自ずと個性的なものになるのだと受講生に教えられているようで、自らを省みる。