ものづくりには、みんなで考えるべきでないことがある
いまの日本文化では、集団で(会社でもオーケストラでも)何かをつくるとき、みんなで意見を言い合って、できるだけ多くの意見を反映させようとする。つまりコンセンサス(満場一致)文化だ。
これにはいい側面がある。一人ひとりがその組織に属している実感が持てるし、意見を聞いてもらえるから不満も少なくなる。
しかし、ものづくりでは、どの段階でそれをやるかが問題だ。
「設計」の段階でやってしまうと、往々にして、つくるものから「筋が通っている感じ」が欠けてしまう。寄せ集め的に複雑になってしまい、全体のロジックがちぐはぐになりやすい。
みんなで考えると、Aさんの大切なものと、Bさんの大切なものと、上司のCさんがこだわるものが、混在する。邪険にできないから、いいですね、とりあえずそれも入れときましょう、となる。
結果、一見多機能で便利なものができあがるが、一貫性がなく、複雑で、ケースバイケースの要素だらけになる。
先日、ある組織でイベントをやった。
当初はグループの活性化のために、みんなで中身を考えようとしたが、途中で思い改めて、「申し訳ないが私が全体の流れを考える」ということで納得してもらった。
なぜなら、流れ、ロジックは、1人の人間が徹底的に考えたほうが、無理のない、自然なものがつくれるからだ。
ロジックを組み立て終えたあと、細部については、皆でアイディアを出し合い、つくっていった。
ネットゲームの「マインクラフト」が、これほど世界的に流行して、多くのユーザーが個々に自分のワールドを楽しんでいながらも、有機的に発展できているのは、1人の人間が元のプログラムをつくっているからだと言われている。
かつてのアップルが、次々に新製品を出しながらも、どこか筋が通っていたのは、1人の天才が、徹底的に考えていたからではないか。
私は作曲をやっているから、なおさらそう思うのかもしれない。たとえばブラームスが交響曲をシューマンと一緒につくっていたらどうなっただろうか。
ハリウッドの映画音楽のように、作曲をブラームスが、オーケストレーションをシューマンが、といった分業ならありだろう。だが、共作は駄作を生むだろう。
余談だが、息子が2歳になるまで、日本の子ども向けテレビ番組をほとんど見せていなかった(べつに敬遠していたわけでなくたまたま)。
ところが、はじめて「おかあさんといっしょ」などの番組を観たとき驚いたことがある。それは「みんなで」「いっしょに」という言葉の多さだ。
正確に調べたわけではないが、私が子どものときに比べ、増えている印象だ。
ものづくりでは、「1人で」「徹底的に」考え、組み立てる部分と、「みんなで」「いっしょに」やるべき部分とを、分けるべきだと考えている。
1人で考えるのは、独善的になるのではないか、皆を無視することになるのではないかと、心配になることもあるだろう。
しかし、ものづくりには1人で考えるべきことがあり、それには不安、孤独、責任が伴う。そして、それらのことを受け入れてはじめて生まれてくるものがあるのではないか。
イベントであれアートであれ製品であれ、ものづくりに携わる者は、そのことを知っておかなければならないと思う。