なぜ作品を「最適化」するのが大切なのか
多くの人が実はやっているが、あまり意識されていないように思うのが「最適化」。
画家や写真家が展覧会をやるときに、ギャラリーの広さ、壁の色、照明の種類などを考慮して、一番よく見えるように額装したり配置したりする。会場を想定してあらかじめ作品の大きさや色合いなどを決める場合もある。
ウェブデザイナーが、たとえばiOSで一番使いやすいようにデザインする。
これらは「最適化」。
作品はそれ単体で魅力的でありかつ完結しているべきで、会場に合わせて大きさや色を変えるべきではないというアーティストもいる。
それはそれで理解できる。しかし、その会場で魅力的に見えなければ、魅力的に聞こえなければ、本末転倒ではないか。
たとえばバッハやモーツァルトの曲の大半は、つくる前にほぼ楽器編成や演奏会場が決まっていた。作曲家はその条件に「最適化された曲」を書いた(もっともバッハは、べつな楽器に置き換えても演奏可能な曲をたくさん書いているのだが)。
モーツァルトが「ヴァイオリンと弦楽の編成で協奏曲を書いてほしい」と言われたときに、「いや、そこにホルンを入れなければぼくの曲ではない」「オーケストラでなければ」「音響のいいホールでなければだめ」とは言わなかったはずだ。
かつてアメリカの音楽(ポピュラー音楽)は、ラジオ放送、カーラジオのスピーカーに最適化さていた。そのためには音数を少なくしたり、ある周波数帯はばっさり切られるといった、アレンジ、ミキシング、マスタリングの工夫がなされた。どれほどアレンジャーが分厚いオケを書きたいと思っていても、その条件下で魅力的に聞こえなければ、魅力ある曲として扱ってもらえなかったのである。
現代では、Spotify、iTunesなどの配信に最適化されたマスタリングと、アナログレコードに最適化されたマスタリングに分けるアーティストも多い。
同じように、現代の写真も、たとえばInstagramでよく見えるように最適化されていていいし、それをギャラリーで見せるときは、使う紙や会場のコンディションに最適化させるために、Instagramとはちがう画像編集をしていいはずだ。
そういうことをあざといとか言って嫌う人もいるが、写真集だって、実際の白黒プリントとはちがう色合いのダブルトーンにしてるのは、よくある。それだって、作品を紙媒体に最適化しているということだろう。
ただし、モーツァルトと大半のインスタグラマーには、頼まれてつくるか、自発的につくるかの違いがある。
だが、仮に頼まれていないとしても、アウトプット先の制限に最適化すること、少なくともその環境に思考を馳せることは、とっても大切なことだと私は思う。なぜなら、その最適化の過程のなかで、多くの創造的な出来事が起きるからだ。制限は創造を刺激する。