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宝誌和尚立像をみてたら感じたこと

いただきものの仏像図録を眺めていたら、一体全体どうなっているのだと目を引く仏像があった。
宝誌和尚立像。
「銀杏の殻をを割ったみたいにして中から顔が出てきている」とよく表現されているようだ。
京都の西往寺のもので今は京都国立博物館にあるらしい。
簡単に由来となるエピソードも調べた。

宝誌和尚立像

昔、中国に宝誌和尚という聖者あり。大変尊敬された聖者であったため、帝が「かの聖者の像を、影(肖像)として残そう」と述べられ、3人の絵師を遣わした。1人の絵師なら、写し誤ることもあるから、という意味で、3人が個々に描くように、帝は命じられた。3人は宝誌の所に参じ、帝の命を伝えた。すると、宝誌は「暫し待て」と言い、僧服を着して戻った。3絵師が、描画の用意を整え、3人そろって筆を入れようとしたところ、宝誌が「暫し待て。我が真影がある。それを見て描写せよ」と言った。3絵師が見ている間に、聖者の顔を見ると、親指の爪を用いて、額の皮を裂き切り、その皮を左右に引きひろげ、金色に輝く菩薩の面相を現した。1絵師には十一面観音に見え、1絵師には聖観音と見えた。各自が見えたところを写し取り、帝に献上した。帝は大層驚き、別の使者を派遣して様子を伺った。すると、宝誌は突如姿をくらました。それより、人々は、宝誌は常人ではなかったのだ、と言い合うようになった、と伝えられている。
— 『宇治拾遺物語』巻9

Wikipedia 宝誌和尚

 エピソードとは別に、誰の中にも仏性があるということも表現しているということも知った。
 この像の中から現れている顔は、11面観音なんだそうだ。オデコのところに11面のうち正面にあたる小さな観音の顔があるとのこと。

 十一面観音の頭の上に載っている顔の表情はいくつかある。
たいてい柔和相3面、憤怒相3面、白牙上出相3面、大笑相1面、頭頂仏相。
 外の顔と中から現れた顔が同じ顔であることから、これは人の表情を見て、その中に愛の姿を感じた瞬間を捉えているように私も感じる。
 別に宝誌和尚でなくてもそのような瞬間はたしかにある。

 中から飛び出てくるのが明王であってもよい。叱咤しながら激励してくれてることをただ感じたらいい。
これもまた一つ愛の形だからだ。

 手助けできるようかまえながらもじっと見守ってくれる愛もある。

 誰かがとっさに差し出した手が、観音の手にみえたり、ああ今この人の胸から光輪が突き破って出てきたなということもある。

 そして人の裂け目からは、たださみしそうにうずくまる子どものようなものがみえたりもする。怪物みたいに暴れまわる人の中に、ただの怯えたちっぽけな子どもがみえたりもする。

 身体中の裂け目から、時折いろんな顔をのぞかせながら、みんな人間のかたちを保っている。その顔は出番を待つかのように絶え間なく交代する。

 わかりやすいか、わかりにくいかだ。たいていの場合本人は無自覚なのだから、見える見えないはみる人の置かれた状況にもよる。

 誰かの何かが一つみえたら、みえない人にも全員あると信じることができる。けれどずっとみえなくてもそれでよい。全部みえたら大変だ🙄。

 私の中の子どもを遊ばせながら、手を差し伸べてくれる人の観音や子どもをみたり、ただ誰かの中の子どもと遊んだり、そっと何かをささやいてみたり、することになっていること、別にやらなくてもいいこともしながら今日の舞台を鑑賞したり演じたりしている気もする。

 今日はいったい私はなにをみるのかな。なにをするのかな。

 とりあえず言えること

 洗濯物を干そう!

 じゃぬん♪
(使ってみたかったの!🥰❣️)

なんのはなしですか

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