記録に関するエトセトラ
先日卒業アルバムに関する
なんとも不思議な話を聞いた。
私が不思議だと思うだけで、
もう当たり前なのかもしれない。
集合写真。私の時代は当日欠席者は上の方にバストショットで別でうつってた。
ところが、今はちょっと気の利いたサービスなのか、合成してみんなとうつってる場合があるらしい。
賛成とか反対じゃなくて
なんか不思議だ。
配慮ってなんだろう。
合成の記録で記憶が上書きされることはあるような気がする。
私はよくわからない。
でもまぁ、全ての本が焼き尽くされたりする歴史もある。
歴史までいかなくとも、ダメになっちゃった言葉を今風に書き換えちゃうこともある。
各国の歴史の教科書は事実を述べるが、都合の悪い事実は述べなかったりする。
ギリシア彫刻は、ヨーロッパで局部に葉っぱを付け足される。
あんまり深く考えないでもいいのかな。
毎日書いてるnoteの記事に、書いた覚えのないことが混じっているのを発見しても、私は気がつかないのだろうか?
何が本当で何が本当でないのかなんてはじめからよくわからないのだけれど、「記録」が頼りないのはなんだか心細くもある。
でもまぁ、遺影を加工しまくって超絶美人にしてみたり楽しみ方もありそうだ。
全然関係ないかもしれない。
こちらが動くと同じようにアバターが動いてくれるアプリがあるみたい。
鏡のかわりにモニターをおけば、私はそのアバターを自分だと思い込むかもしれない。
すっかりそれに慣れた頃、電源を切られたら私は私を取り戻すのだろうか?消えるのかな?