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思ってたんと違うけど楽しかった公開講座感想

昨日、奈良国立博物館の「お水取り」展示にまつわる公開講座「声明稽古の進め方とは」に行ってきた。

声の出し方のヒントを求めていったけど、関係なかったがとても楽しかった。

講師の東大寺長老狭川普文さんは、話題が豊富で「でんねん」「まんねん」を連発しながら、4秒に一回ほど話を脱線して、そのたんびに「ガハハ」と笑う。その「ガハハ」があんまり楽しそうなので聴講生も毎回つられて笑う。そんな講義だった。

軽妙なトークの間にふわりと時事問題が織り混ざったり、守らなければいけない歴史の重みというのはどんなものかチラッと想像してみたり、たくさん笑い、うなずいたり、感心したり安心しながら心があちこちに動くような時間だった。

それで帰ってきてとったメモをみると全くもってなんの話を聞いてきたかわからない。(インドの電車の枕木ははやくにコンクリートになっている。アメリカ人はサインを求めるけどドイツ人は仏教用語を書いてほしいという人がいる。知恩院のお経は音程ずれてる人が1人もいないし、鳴り物も裏打ちまでしてて音楽レベルがめちゃくちゃ高い。お大師さんの法要は東大寺は太陽暦だけど高野山は太陰暦なので相互に行き来している。美術館に展示される仏像などにもお経をあげにいく。(奈良国立博物館の仏像供養は年3回)イタリア開催のトスティ歌曲国際コンクールの話など。)


なぜ声の出し方はあまり関係なかったのかを探る為、いただいたプリントをみている。

「声明」の認識。

私にとっては声明は「いい声のお経」というゆるい認識だったので、
「声明稽古の進め方」には当然「いい声の出し方」が入っていると思ってた。


プリントをみると
日本で言う「声明」は「梵唄」の系統で仏教伝来の当初に伝わっている。
(752年大仏開眼供養会にも声明「四箇法要」が行われている。)

「梵唄」というのは真言や経文に節をつけて唱える仏教儀式の古典音楽だ。仏の前で諷誦する声楽で、サンスクリット語の讃歌からきている。

日本にはこの形式で伝わった。

「声明」śabda-vidyā
サンスクリット語で言うところの「声明」の意味は「声や音を学んで明らかにするということ」。
もとは言語、文字、音韻、文法などに関する学問で、特に文法学をいうらしい。

ちなみに昔の(?)インドでは5教科みたいな感じで「五明」というのがあって、世間一般でも学習されていたようだ。
五明は声明・工巧明(建築、工芸、数学、暦学)・医方明(医学、薬学、呪術)・因明(論理学)・内明(自派固有の学問)。

つまり声明を声楽ととらえる場合、稽古の内容も音程、節回し、リズム、歌詞(?)、所作の暗記など多岐にわたるので声の出し方なんか初歩なのか出てこない。

ちなみに練習方法は口伝の丸暗記。
口伝のことを業界用語(?)で「ロイ」というらしい。(漢字の一部カタカナ読み。)
難しいので楽譜のように博士(ハカセ)とよばれる記号で節をかいたり、符号があったりたまにはドレミで音階をつけたり工夫はあるけれど、結局のところ同じかどうかはテストを受ける。
間違って覚えさせるとと次の人に間違って教えることになるから、教える方も責任重大で大変らしい。
(四箇法要の練習の譜面?をみつけたので参考にのせます。)


そういうわけで目的とは違うけれどここからはちょっと聴いて興味深く思ったことをバラバラにかいてみたい。 

間をあけたほうがいい

一生懸命連続してやりすぎるより
ちょっと間をあけるほうがいい。
全体的な修正ができたりする。

小さな作品も大きなところで発表してみるとよい。

意味は聞かなかった。学ぶところが多いのかもしれない。

柳に込められた意味(修二会で使う)

清浄なものをますます清浄にする。
生命力。

紙子(和紙でできたお水取りの僧侶の装束)はむちゃくちゃあったかい

紙子を着て走り回って声出して五体礼拝してると汗がボトボト落ちるほど暑い。お水取りの気温は寒いほうがいいと思うくらい。

神様ごとをきれいにしてから仏事をする。
聖武天皇のころからといっていたけれど主語は判然としない。

修二会でも神々の勧請のシーンが多くある。3月1日から14日まで毎日、522の大小神祇から御霊まで記載してある「神名帳」を読むことで一万三千余柱の神々を勧請する作法。
練行衆のため結界を張るのに四天王を勧請する作法など。

ゆっくりのほうが難しい。
あらがでる。

同じ文でもゆっくり読む本節とはやく読む時がある。途中からはやく読むパターンもある。
ゆっくりのほうがやりにくい。


名前を呼ぶということ

修二会では3月5日と12日に
「過去帳」を読む。
これは修二会や二月堂に貢献した歴代の人々の名前の読み上げ。

いわば神名帳の人間バージョンだ。

「名前を呼ぶ」ということは、この界隈では特別な意味があるのだなと思った。

「呼ばれないこと」にも意味がある。
青衣の女人(しょうえのにょにん)の名前をそっとつけたすエピソードは素敵だ。


講義の後に、「お水取り」の展示もみてきた。

錫杖の説明に私の解釈によると
「素敵な音で驚喜させる。」
という効果が書いてあった。
聴いてみたい。

それから近くに鈴もあった。
三鈷鈴のような持ち手だけど
ベルのような鈴とはちがう。
こっちのほうが音が大きそうだ。
カランカランカラーン♪
想像してみる。

「差し掛け」という紙カバー付下駄もあった。これでカンカン走り回る所作もリズムも決まってる。

神名帳もあった。神様の名前だらけの長い巻物。みると読み上げるの大変だなーと実感する。人の読み落としで幽霊が出てくるくらいだから、神様の名前を読み間違えるわけにはいかない。そしてこれも音。

お水取りの時の松明のバチバチいうのは火でもあるけど音だなあと思えてくる。

香水を扱う道具もある。
絵巻の横の解説を読むと遠敷明神から送った水が湧き出す前に岩の中きら白と黒の鵜が現れたらしい。
その水を運ぶとき桶を担ぐ道具は榊を飾るそうだ。これは穢れないように運ぶためだろうなと想像する。

お水取りの様子は一度見にいったことがあるけれどまだまだ知らないことだらけだ。

家に帰って動画をいくつか見てみる。
東大寺公式YouTubeのものが大変興味をそそる。

ただ真っ暗で何やってるのかあんまりわからない。

試しに一つのせてみる。

鈴の音、差し掛けの音、法螺貝の音お楽しみください。

ちなみに達陀はサンスクリット語で焼き尽くされるという意味だそうだ。

全く関係ないことだと思うけれど
火事に気をつけるべき時期に
敢えて火を使うというのは
みんなの全神経を集中できて
気持ちのいいことかもしれない。

みなさんも
危険を遠ざけてばかりだと
なにか倦んでいくような気はしないだろうか?
敢えて危険なことを
真剣にやることで
そのうみを出すことができる気がする。
そして火を扱うことでその倦みを一緒に燃やしつくせる。

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