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[記憶]お茶出し風景

T氏が常務を訪ねてきた。
私のみるところこの2人はお互いに好感を持つ間柄である。

2人は当然仕事の話をするのだが、
雑談のほうが多い。
仕事にかこつけて雑談したいのではないのかなと思うほどだ。

応接室に私は呼ばれた。
仕事の部分をメモするためだ。

メモの要領が的を得ないと
これまた2人はそれを会話のネタにして愉しむ。

私はネタにされまいと一所懸命メモをとるのだが、この2人の会話を聴くのはちょっと楽しみでもあった。

そこへ、我が社の生きる歴史M女史がコーヒーを持って現れた。

一口飲んだT氏がいかにも愉快そうにいう。
「なんだー。おまえさんのところのコーヒーはインスタントかー。」

常務も楽しそうに返す。
「まぁそんなこというなよ。それより今日は何の話だ。」

「そうだった。今日はあの話だ。」
何やら資料を取り出しながら

T氏は私のほうをちょっとみて
「そうだ。また今度うちへ来たらアンタに美味いコーヒー淹れてやるよ。」
と言った。

一方私はそのとき
ただならぬ気配の余韻の中にいた。

M女史である。

インスタントコーヒーのくだりは
男同士の会話の枕で
別にインスタントコーヒーでいいのである。

でもあれはM女史のプライドを酷く傷つけた。
彼女はお茶、お花、習字、たしか踊りにも優れ、仕事においても人事、来客の好みなんでも知っているスーパーウーマンなのである。

まずいことになったかもしれないと私は察知したが、その日は何事もなく終わった。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
数ヶ月ほどたったころであろうか

「おーい。明日、T氏が来る。応接室あけといてくれ。」
常務が言った。

翌日出社して給湯室に入った私は驚いた。
サイフォン式のコーヒメーカーが置いてある。
M女史はインスタントコーヒー云々が悔しくて家からこれを持ってきたのだ。
名誉挽回のチャンスを虎視眈々と待っていたのだ。

「T氏よ。どうか味の違いをわかって欲しい。」
私は願った。

その日私は呼ばれなかった。
T氏は常務といつも通り話し込んで帰っていった。
今日はおそらくコーヒーについて言及してはいない。
だけどM女史はしごく満足そうであった。
コーヒーについて言及がないことが
彼女にとっては認めさせたことになるのだ。
私はそこに大人の女として生きる上での智慧のようなものを垣間見た。

とにかく良かった。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
ずいぶんたってからまたT氏が訪れた。
その日は私がお茶を出した。

楽しい気持ちで部屋に入ると
どうしたことか
T氏が常務の前で大泣きに泣いていた。

聞こえてくる話によると
飼ってた犬が亡くなって
どうにも仕事にならないから
抜け出してきたみたいだった。

人間味のある人だ。

いつもは余裕たっぷりといった
T氏の弱さをみて、私はいいなと思った。
いつもは人をおちょくってばかりいる常務が黙って人の話を聞いてるのもいいなと思った。
仕事で知り合った人とこんな関係を築けるのっていいなと思った。

私は何も言わず
お茶を出して
部屋を出た。

様子を尋ねてきた
M女史に
簡単に状況を報告する。

普段、応接室で話がはずんでいるようだと邪魔にならぬよう合間をぬってお茶の替えを出す。
お茶の替えが出ると長居をしたかなと思ってしまわせないように、かなり神経を使う。

この日、M女史からは
私にお茶の替えを持っていく指示はなかった。
そしてM女史も行かなかった。
はじめに出した湯呑みが空っぽのままテーブルにあるほうを選んだ。

私はM女史のことを
やっぱりいいなと思った。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
ちなみに
T氏は宣言通り
私が使い走りで書類を持参したおりドリップ式のコーヒーを淹れてくれた。
「どうだ。おまえんところのコーヒーと全然違うだろう。」
と大変得意気であった。
私は大変面白かったので
常務には報告し、
M女史には報告しなかった。

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