山のある風景
歌舞伎絵を探してたら北斎がでできて北斎をみてたらしまいに富嶽三十六景にみいってた。
こんなことしているから時間がいくらあっても溶けていく。
探していた絵は全く違うものが気に入ってそれを使う。
そしてまた戻って富士の絵ばかり感心して眺めている。
感心して眺めているなら、富嶽三十六景の絵をおとなしく使えば良さそうなのだが、それではただの絵画鑑賞である。
ここはひとつ写真でなければならない。そうしてまた時間は溶けて私は気に入りの写真を見つけた。ヘッダーにお借りした画像だ。日常の中に当たり前に富士があるところに惹かれた。
富嶽三十六景をなんとなくみていると、季節もいろいろ、場所もいろいろ、一緒に描かれている人々の様子もいろいろである。そしてその全てに当たり前であるが富士が描かれている。
これがまことに面白い。
いろんなところからみた富士が描いてある。と普通私達は考える。
私は逆のことも考えた。
(当たり前なのかもしれない。)
富士がいろんな季節、いろんな場所、いろんな人々の様子をみている様子を描いてあるのだ。
考えてみてほしい。
こっちからみえるということは、あっちからだってみえるということだ。
富嶽三十六景の中の富士はごく当たり前の背景のように富士が描かれている。
つまり人々はあまり富士の視線を気にしていない。
私は全部じっくり見たわけではないから、たまには「やあ!今日は富士がよくみえるナ。」みたいに富士を見上げている人物も登場しているかもしれないのだが、描かれている多くの人は富士の視線を気にしていない。
しかし富士の方はみている。
動かないで、じっとみている。
春も夏も秋も冬も。
誰もいない日も、大勢が行き交う場所も、熱心に仕事をしている人も、波に呑まれそうになりながら揺れる船もじっとみている。
近ごろ私は他人に対して
どんなにハラハラしても
なるべく手出し口出ししないほうが
親切なのではないかと考えるようになってきた。
富嶽三十六景に描かれている
富士のありようがまさしく
理想の姿なのである。
富嶽三十六景はそれを私に気づかせてくれた。
別に写真の富士だっていいわけだし
極端なことを言えば富士じゃなくてもいいのである。
何か別の山でもいいし、
東京タワー🗼なんかはかなり
いいように思う。
高いところから人々をじっとみる。
そんなアイコンであればなんでもよい。
アイコンなしで神様を感じることができたら最高だけど、私はまだまだその領域にない。
さて私は私の住む街を いつも何が見下ろして眺めていてくれるのか
ちょっと考えてみたいと思う。
給水塔とかでもいいのかナ☺️。