イメージの冬 冬のイメージ
朝起きて
例えば今日私は鶴だと思えば
鶴になって1日過ごしてみたら良いのだ。
翌朝起きて
亀かもしれないと思えば
また亀になって過ごせばよい。
なにか問題あるか?
鶴になっても亀になっても
私はごはんも作るだろうし
洗濯もするだろう。
鶴っぽく亀っぽくするだけだ。
うまくいったり
ちょっとちがうなと思うだろう。
それはつまり
「私は鶴なのにごはんを作らなきゃならないなんて世の中間違ってる!」
と考えてみたり
「亀だからやっぱり洗濯は難しいな。」
と納得してみたりするということだ。
それで本当は私はなんだろうと思い悩むときもある。
でも実は何かに固定する必要はない。
何になろうがたいていやることはやってる。
さて今日は何になろうか?
私はあと何回朝を迎えるのか
計算するつもりはないけれど
なってみたい何かを大量に知っておくと楽しいことは確かだ。
それはふとなってみたいものであり
何もかも気に入っている必要もない。
だいたい鶴や亀に完璧を要求するとかあるのだろうか?
「いいな」と思うなにかに触れるために、喜怒哀楽の舞台が毎日用意されている。
大量に「いいな。」と思っても、
身体は一つ。
今日歩く小径はどのみちにしようか。なにを発見するだろうか。
木枯らしが冬の入り口の戸を開けた。
襟をたてて、冷たい空気が胸に入りこまないようにして、
耳や鼻が凍りそうになるのも感じる。
息が白いことに、体温を保てていることを実感し
手をさすりながら
ときにはうんと暖かくした部屋で
イメージを育てる。
あっという間に、冬がやってきた。
外は寒いけれど、内は暖か。
とても大切な季節。
でも1番いいのは単に
「このみかんアタリだったわ。」
とか言ってるだけの状況な気もする。