この一品「明治ブルガリアヨーグルト」(1971~ 明治乳業)

ブルガリアといえば、リラの修道院。

1 全 般
ブルガリアで最大、かつ(おそらく)最も有名な正教会の修道院。
1983年、ユネスコの世界文化遺産に登録された。

ここを訪れたのは10年以上も前、
今ではすっかり趣が変わっている可能性もあるものの、当時の状況について少し、

2 アクセス
首都ソフィアからは120kmほど、人里から遠く離れた峡谷の深い低地にある。
ブルガリアの誇る観光資源でもあり、
一応は舗装された道が通じているものの、秘境という表現がぴったり当てはまる。
建設当時のことを考えると、建てるだけでも相当な技術的困難が伴ったのではないかと思う。

なお、当時は行くだけでも技術的困難が伴った。
今と違ってインターネットはようやく普及しだした頃、ネット上の情報は極めて限られていた。
観光案内所でバスのチケットを買える場所を教えてもらうのも苦労した。
バスのチケットの窓口では更に難儀した。
直通のバスはなく、乗り合いバスのようないわゆる「普通」のバスを乗り継ぎながら行く方法しかないらしい。

一般的に、当時の東欧では、
ドイツ語は観光地ならかなり使えるものの、英語はまず通じない。
ソ連崩壊からまだ数年しか経っていなかったこともあり、
外国語としてロシア語を習った人は多く、かなり通じた。
ただし、ほとんどの人は使いたがらない。
「いいえ、私はロシア語を話せません。」
とロシア語で返されるなど、笑い話の再生産のようなこともあった。

首都ソフィアからはバスを乗り換え続けて半日ほどかかる。
今なら日帰りツアーも可能かもしれない。

シーズンオフ(2月)ということも状況を悪化させた。
現地について初めて知ったのが、そのバスも1日1往復しかない、ということ。
つまり、乗ってきたバスがそのまますぐ引き返すようになっている。
真冬に訪れる観光客はほとんどいなかった。
確かに、途中までは地元の人たちが乗っていたものの、
終点までやってきたのは私と同行者の友人だけである。

3 宿 泊
当時、修道院には公開用のほかに宿泊用の部屋があり、観光客も宿泊できた。
受付と思しき所で交渉する。
そう、いつも「交渉」である。
日本における「定価」、「価格」という考えはあまり通用しない。
たとえ、相手が警察官や車掌、パスポートコントロール、制服を着た相手でも安心はできない。
(むしろ、そういった権限を持った人の方が対応に注意を要する、あまり強く突っぱねるのも危険。)
応対してくれた人は恰好からして僧侶のようだ。
神職者なら大丈夫なような気がする。。。

僧:「1泊30ドルになります。」

壁にははっきりと「1部屋15ドル」と表示されている。
最近値上がり(それでも倍、ということはないだろう)して剥がし忘れた風でもない。

私:「そこに1泊15ドルとありますが」

僧:「いいえ、1泊30ドルです(キッパリ)」

その後、しばらく実りのないやり取りが続き、
私:「宿泊料はあなたが決めるんですか」

僧:「いいえ、神が仰せになりました」

神が仰せになったのでは仕方ない。
そもそも、宿泊か凍死かの我々とではsense of urgencyの認識が全く違う。
もとから勝ち目はなかったのだ。
宿泊料15ドル、施し又は浄財15ドルの心境で支払い。

4 グルメ
近くには1軒しかないので、レストランを選ぶのはそれほど難しくない。
先客がいる。
なんと、先ほどの受付にいた僧侶だ。
彼のテーブルの上にはビールジョッキらしきものと肴らしきものが。

仏教にも「般若湯(お酒のこと)」というケースがある、
彼らの世界でも戒律的にOKなんだろうか、
などということよりも先に私の頭をよぎったのは、
彼は今「羽振りがいい」のではないか、ということ。

我々に気付くと、「テヘッ」という感じで少し気まずそうにしていた。
その恥じらいがあるのなら、時間ずらすとかすればいいのにわかりやすい人である。

5 入 浴
各部屋にはシャワーが備え付けてあった。
暖房は「死なない程度」という感じで寒い。

とりあえずシャワーだ。
「お湯」らしきほうの蛇口を勢いよくひねる、
勢いよく「水」が出てきた。

「おっと、水のほうだったか」
満を持して、今度はもう一つの蛇口を勢い良くひねる。
勢いよく「もっと冷たい水」が出てきた。

失礼しました、最初のが「お湯」でした。

そもそも、
シャワーで「お湯」が「勢い」良く出てくるのはそれなりのホテルだけ。
期待はしていなかった。
沸かしながらでなく、タンクにためておくタイプが主流なのですぐにぬるくなることも多い。

こんなことで心が折れてはならない、、、
私は精神的にも鍛えられた。
早くも「水ごり」の効果が表れたことを実感。

6 就 寝
「水ごり」の後は就寝。
真夜中、誰かが我々の部屋のドアをノックしている音で目が覚めた。

このノックも、いわゆるコンコンというイメージからはかけ離れていて、
特に東欧では容赦なくドンドン叩く感じ、当初は結構怖かった。

我々のほかに宿泊者はいない様子だった。
受付の人かな。。。

「誰ですか?」、「何の用件ですか?」
先に起きた友人が英語、ドイツ語で対応するも全く通じない。
(受付の人はドイツ語とかたことの英語ができたのに)

もしかして、かなり危険な状態ではないだろうか。
とも思った。
同行の友人は空手の有段者なのでかなり心強いものの、
相手が素手でなかったらそれまで。
こんなとき弓道有段者の私は雄豚の乳首より役立たず、だな。
などとも思った。

相手はノックしながら何か言っている。
ブルガリア語のようだ、、、
雄豚の話は置いておいて最後の砦、ロシア語を試す。

僧:「おお!あなたはロシア語を話すのですか!私はこの修道院の者です。」
(ここから先は正直良く分からず、何度も聞きなおした。)
僧:「トイレの水が流れ続けているようなので直しに来ました。」

確かに、最初に使って以来ずっと音がしていた。
(もしかしたら最初からかもしれないけど。)
僧侶は元栓を閉め、使うときだけ開けるようにしてねと言い残し、我々の部屋を去った。
去り際に彼からブルガリア語の「おやすみなさい」を教わり、早速使う。
彼も笑顔で「おやすみなさい」。

こんな夜遅く、有難うございました。
そもそも、宿泊者がいなければ彼は当直に付かずに済んだのではないだろうか、
とも思った。その点からも有難いことです。

ロシア語とブルガリア語は非常に近いし、文字もキリル文字を使う。
ネイティブ同士ならかなり意思疎通できるらしい。
ただし、私のロシア語は全くのかたことなので、そのようなレベルには遠く及ばない。
しかしながら、この旅では何度か危機を救ってくれた。

就寝。

前置きが長くなりましたが、
そんなブルガリアの名物、ヨーグルト。

長年、私は「明治ブルガリアヨーグルト」のファンです。
400gのパック、一気食いすることもしばしばです。
(砂糖は使わず。混ぜずに塊の感じをキープしつつ食べる。)

独特の酸味が苦手、という意見もありましたが、
他のヨーグルトとは明らかに味に違いがあり、
一度知ってしまうともう他のヨーグルトでは満足できません。

明治ブルガリアヨーグルト:

1970年大阪万博のブルガリア館でで展示をきっかけに、「本物のヨーグルト」を追求して開発されたもの。
翌1971年、日本初のゼリー加工なしプレーンヨーグルトとして発売開始。
使用する菌はブルガリアから定期的に輸入している。
これはブルガリア以外の場所で菌を培養しても性質を保てないから。

そもそも、商品名に「ブルガリア」の国名を冠しているのはブルガリア政府から正式に許可があってのこと。
ヨーグルトはブルガリアのソウルフード、民族の心を他民族にの作った商品に貸すわけで、白熱したやり取りがあったのではないかと思います。

また、きちんと断りを入れること自体立派なことだと思います。
これは、
当地での適当な日本(のイメージを前面に押し出しつつ実は、な)食品、
怪しげな日本レストランを見るにつけそう思います。
(実は、Japanese Japanese restaurantは少ない)

このような製品をもって日本を判断されるわけで、
当初のブルガリア政府の反応もかくや、と思いました。

そんなヨーグルトが名物のブルガリア、
一般の家庭では必ず手作りヨーグルトがあるそうなんですが。
ブルガリア2日目の朝、
期待していたホテルの朝ごはん、ヨーグルトは「DANONE」でした。。。

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