丸裸のニンゲンカンナになる時間
Compathが4歳になった。
4歳の誕生日を迎える直前に、1泊2日の同窓会に参加した。
「これ、日本にも欲しいよね」という一言が種となり、芽吹いたCompathは、4年の月日を経て素敵な校舎を構えた。
4歳になったCompathくんは、とても多くの人を愛し、愛されすくすくと育っていた。
Compath同窓会当日の様子はこちら▼
はじめましての人ばかりなのに、はじめましてではない感覚
Compath同窓会を終えて、「あの時間は何だったのか」と話したとき、ある人が言った言葉。
わかるな、と思う。
Compathは、共に歩む人生の小径という意味を込めた造語だ。
Compathのサイトは、こんなメッセージではじまる。
人々の寄り道が重なるところでは、肩書に縛られない、ニンゲンとしての自分の言葉が出やすくなる。
寄り道で出会う景色が、人生を豊かにする。
寄り道へのときめきは、一方で、そうできない現実を意味するのかもしれない。
人に言ってはいけない言葉は自分にも言ってはいけない。
何かの本で読んだとき、はっとした。
私たちは、時に、自分自身に一番冷酷になってしまうことがある。
何に追われるわけでもなく、
自分が自分を急き立ててしまうことがある。
足が攣ってしまいそうな不安。走り続けていたら止まり方がわからなくなり、じたばたするほど溺れていく。
「子どもはまっすぐ歩かない」と父はいった。
あれ、そういえば、いつから寄り道をしなくなったんだっけ。
人生の寄り道が重なり、Compathという学び舎で出会った人たちは、
“同窓会”という寄り道で、また出会った。
同窓会の時間を振り返りながら、「名前は知っているのに、やっていることがわからない感じ。とてもおもしろかったし心地よかったんだよね」と話す人がいて、それを「公園で子どもが出会う感じ」と例えた人がいた。
それを聞いて、「はじめましての人ばかりなのに、はじめましてではない感覚」は、同じ道を歩いたということなのではないか、と思った。
誰かの寄り道を、別の日の寄り道で歩く人がいる。
その2人は同じだけど、違う道を歩いていて、
そこにある土を踏みしめた感覚が、お互いにどこか懐かしい気持ちにさせるのではないかと思う。
同じ土から生えているみたいな感覚、といえば伝わるだろうか。
そんなことを考えていたら、
「ヒューマンの語源は、土のフムスだよ」
と教えてくれた人がいた。
それを聞いて、なんだかとてもしっくりきたし、嬉しかった。
ちょっと前の私は、「Compathは、普段の生活がある場所から離れて、自分のために時間をつかうあたたかな言い訳かも」と思ってた。日常を強く否定しているわけではないけど、Compathは日常と別もので必要みたいな感覚。
でも、同窓会を経て、あの時間ってなんだったんだろうと話してみて、Compathを言い訳に、自分を愛せている、大切にできているというのは、たしかにそうなのだけれど、「丸裸のニンゲンカンナで、心のままに愛し、愛される場所で生きた、温度のある言葉を交わせる場所というのが、 もっとしっくりくるなー」という幸せな発見があった。
青い鳥を追いかけて
Compathのあたたかな時間の流れに触れると、日常に戻ったときに、私が生きる社会では、どうしてそれができないのだろうと絶望することがある。
デンマークのフォルケホイスコーレを卒業した人たちの話を読んでいると、同じような感覚になることがあるみたいだ。過ぎ去った時間が夢に思えたり、大切にしたいと思えた感性のアンテナが鈍ったように思えたり。
かく言う私も、同じ感覚に陥ったことがある。
Compathという場所や、Compathを通して知ったデンマークの考え方に触れなかったら、こんなにも悩むことなかったのに、と。
「仕事ってそういうもんだから」「それが社会だから」「辛いよね。でもそれが、毎月あなたの銀行口座にお金が振り込まれるっていうことなのよ」
これまで聞いた諦めの言葉は、湧き出てくる違和感に蓋をする。
違和感をこらえきれずに悩むより、
そういうもの、と片付けられたらどれだけ楽だろうか、と思う。
でも、そう片付けてしまいたくない自分もいて、
そういうときは、決まってCompathで出会った友人とZoomで話しながら、「世知辛いぜ」と嘆きあった。
学生のとき、「Compathは、青い鳥を追いかけさせてくれる」と言ったら、「私は青い鳥と思っていない」と言われたことがある。
私のなかでは、存在しない青い鳥だからと一度諦めかけてものを、Compathという場所で追いかけさせてくれることへの感謝、みたいな気持ちだったのだけど、そのCompathをつくっている人は、それを「青い鳥」と思っていないというのは、すごく大事な気づきだった。
自分が触れた心地よい世界と、自分が生きる社会にあるギャップに気づいてしまったとき、とても寂しかった。
でも、今は一周回って、Compathはユートピアではないと感じる。
Compathという存在が触れられない遠くにあるものでなく、自分の生活に馴染んできたと思うのだ。
「自立は複数の依存先をもつこと」だと教えてくれた人がいた。
Compathは、私の大切な依存先だ。
同じ人が、「カンナちゃんにとってのCompathは、私の生け花だね」と言った。その人にとって生け花は、とても大切な時間で、それがあることで他の時間が安定すると。
私もCompathという場所が、とても大切で、
そこへの繋がりを感じることで、別の世界の自分が安定する。
Compathの学び舎が、北海道東川町という、日常から遠く離れた場所にあるというのにも意味があると思う。
物理的に、自分の日常から切り離れることで、自分のための時間をつかう理由ができる。以前はそれが“逃げ”みたいに感じたこともあったけど、
今はそこで得たエッセンスが自分の日常に染み込んできたと感じることがある。
憧れの理想郷ではなく、私たちの日常と確かに繋がっている。
それはちょうど、青い鳥を探し求めたチルチルとミチルが、
自分の家のハトが青い鳥だと気づくように。
正直なこころとニンゲンであること
あるコースの最後の時間に、
プログラムを一緒に企画した人が涙を流していた。
「あれは何の涙だったんですか」と聞くと、
「あれが本当の自分」とその人は答えた。
とても美しい涙だと思った。
友人は「自分の正直なこころが出てくるとき、涙も出てくる気がした」と言った。正直になると、普段は分厚くしている心の皮が剥がれて、心がむき出しになってしまう感覚。それは、脆いけど、決して弱さではない。
「正直な心が出せるって、素敵だよね。その環境や相手がいることも、正直な心を言葉にできることも、その勇気があることも」友人はそう言葉を重ねた。
Compathの時間は、“ニンゲンカンナ”の感覚が戻ってきやすい。
それが、心地よさを生み出すし、優しくて柔らかい雰囲気を纏わす。
ニンゲンである自分を大切にできることが、目の前の人を大切に思うことに繋がる。
4歳になったCompathくんは多くの人に愛されていた。
それは、同時に多くの人に愛を与えていたということだと思う。
「子どもはまっすぐ歩かないけど、君も全然まっすぐ歩かない」と父に笑ってもらえるのが、今の私の幸せだ。
Photo credit:畠田大詩さん(表紙, 1枚目, 2枚目の写真)