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泣きながら食べた韓国料理。私とサラダ記念日。

「分かる。心が通じ合うと、涙が出ちゃうことってあるよね」

韓国料理をほうばりながら、私は何の涙か分からない涙を、ぼろぼろと流していた。

2024年3月。Compathで初の試みとなるグローバルコースに、私は企画・運営メンバーの1人として参加した。
Compathは、デンマークのフォルケホイスコーレをモデルにした大人の
学び舎だ。北海道東川町を拠点に、1週間~10週間のコースを運営している。

韓国のJayuskole(チャユスコーレ、Jayu=自由、skole=学校の意味)と共同で開催した8日間のグローバルコース。Jayuskoleもまた、デンマークのフォルケホイスコーレに出会った人たちの「韓国で大人の学び舎をつくりたい」という思いからはじまったチームだ。

今回のコース開催のきっかけは、SNSでCompathに寄せられたコメントだった。
「2024年に校舎ができるのをまってるよ。韓国から応援とサポートをおくるね。」
Compathアカウントに投稿された短いツイートが、巡り巡って8日間のグローバルコースになった。人生って何が起こるかわからない。

グローバルコース最後の晩餐はKorean Night。
「ご飯食べた?」が挨拶代わりになるくらい、”食”が大切な韓国。
韓国から参加したメンバーと一緒に、みんなで韓国料理をつくって食べた。

冒頭の言葉は、食事中にぼろぼろと涙を流している私を見ていた友人の言葉だ。

全部なくなった初日

東川町で前泊することにしていた韓国メンバーから、「雪で飛行機が飛ばなくなった」と連絡が来た時は、頭の中が真っ白になった。
前日の準備が終わって解散した後の連絡。
初日プログラムの開始は朝9時半。でも韓国メンバーの到着は当日の午後5時頃とのこと。プログラム開始のときに、参加者の半分が不在なんて前代未聞である。

母国語が違うメンバーが入り交じる初日は、なるべく言葉を使わず、体を動かして、みんなの心をほぐしていこう!と決めてから、朝から夕方までのプログラムをあれこれと考えながらつくっていた。
でも全員集まるのが夕方5時となれば…。どうしよう。
1人パソコンとにらめっこしながら、タイムラインの時間を書き直しては唸っていた。
そんなときに送られてきた「思い切って、(当初予定していたプログラムは全部やめて)午前中は日本メンバーと一緒に午後の予定を立てるとか…」
という運営メンバーのLINE。

でも、あれもこれもしたいし。初日って大事だし。せめてこういう時間はもって、これくらいはしたいよな。いや、でもそれだったら、あれもしたいし。

これまで考えて、考えて、こだわってつくってきたし、そんな簡単に手放せないよ!とタイムラインにしがみつきたい気持ちも芽生えたけど、
「手放そう!手放した結果どうなるか楽しもうぜ笑」
ということになった。

一生懸命考えた分、手放し難い気持ちもあるけれど。
その時の流れにゆだねて楽しもう、と。
「はじまりは、15人の真っ白なスケッチブックを持ち寄るところから。」
今回のコースのコンセプトメッセージに込めた言葉どおり、グローバルコース初日のタイムラインは真っ白な余白となってスタートした。

グローバルコースのコンセプトメッセージ
わたしたちには、創り出せる力がある。
もしも真っ白なスケッチブックがあったら、何を描きたいですか?
未来、いろ、景色、ことば、自分。
はじまりは、15人の真っ白なスケッチブックを持ち寄るところから。
8日間、東川町で感じたこと・考えたことを、
おもいきり描いてみてください。
同じ景色でも、
私とあなたは違う景色を見るでしょう。
世界の切り取り方が違っても、
同じ景色が心に残ることもあるでしょう。
未来を描き、創り出す、8日間へのいざないです。

みんなで創るって難しい

Korean Nightのとき。
私がなんであんなにいっぱい泣いたのか、未だによくわからない。
「7日間を過ごしてどうだった?」
会話のはじまりはそんなようなものだったと思う。
私と話していたもう1人は、参加者として、率直にこう思った、と感じたこと、考えたことを話してくれていた。

そのなかに、プログラムの不明瞭さや、時間の変更や延長が気になったという話があった。”運営者”である私にとって、寄せられたコメントは”フィードバック”になるだろうし、参加者の満足度を下げてしまったということは、今後”改善”に務める必要がある、ということになると思う。なると思う、のだけど、なんだか納得していない私がいた。
「こういう点が気になったよ。改善したらいいと思うよ。」という言葉が、参加者から運営者の方向へ向く矢印だけでなく、「私はこう思うから、こうするね。」「私はこう思うから、こうしない?」と1人から他のみんなへ広がると、なんだかいいよな、っていう気がする。

私も他のコースの運営に関わったとき、気になったことを運営メンバーに伝えたら、
「それなら、そうみんなに言ったらいいよ」と言われたことがあった。
そして、最初にそれを言われたときは、とても寂しい気持ちになった。
なんだか突き放された気持ちになった。でも、今なら、突き放しているわけではないんだろうな、というのが少し分かる気がする。
問題が生じたときに、運営者に解決してもらう、という構造にならないようにしているのだろうなと。

じゃあ、コース開始時に、
「これはみんなで創るコースだから、気になることや、アイデアがあったら、みんなに伝えていこうね。私たちは運営者と参加者という固定された関係ではなくて、みんなが運営者だし、みんなが参加者だという気持ちをもとうね」と説明すればいいのか、というと、それも違うと思う。
表現が難しいけど、そういう”前置き”をしてしまうと、それが8日間の”設定”みたいになってしまって、場全体が運営者の意図にコントロールされてしまう気持ち悪さがある。

だからコースの運営者は「意図」や、運営者と参加者の関係のあり方についての「要望」を伝えない。結果、参加者のなかには戸惑いや、居心地の悪さ、時には摩擦が生じるかもしれないが、それもまるっと含めた”生きた場”としての8日間を一緒に過ごす。そういう場であることを願っている自分がいるのだな、と思う。

そういうような話をしていたら、なんだかわからないけど、涙がぼろぼろ出てきた。フィードバックに傷ついたとか、企画者としての不足さを感じたとか、そういう涙ではなくて。
心のなかでは、「そうだよね、8日間見ず知らずの人たちと過ごすだけでも、いろんなことが起こるのに、運営メンバーの進行もゆるいし、プログラムの内容変わることもあるし(なんなら初日なんて予定してたプログラム全部キャンセルにしてるし)、そりゃあ戸惑うよね。わかるよ、わかるよ。」という共感の気持ちが起こったり、
「でも、じゃあCompathはこういう場所です、これを大切にしているよ!と最初に明示することって、進行はスムーズになるかもだけど、ありたい姿じゃないんだよな」という気持ちが起こったり、していた。

一言でいうと、
「共に創るってめちゃめちゃ難しい」というのを、痛いほどに感じて、それゆえの涙だった気がする。

無力さとサラダ記念日

共に創るってめちゃめちゃ難しい。
そこに感じる難しさは、”社会”というものに対峙したときに感じるそれと似ている気がする。

グローバルコース7日目のメインプログラムでは、”描く”をテーマに、
・1枚のカードに自分のアイデンティティをできるだけたくさん書く・描く
・自分と社会の距離を線で表す
・自分は社会を変える力があると思うか?を自分と社会の間に引いた線の太さで表す
というワークをした。

そのワークの後、昼食を食べながら、
自分にとっての「社会を変える」を意味する言葉に言い換えてみたいね、という話になった。

「この味がいいね」と君が言ったから7月6日はサラダ記念日

という俵万智さんの詩が、誰かの言葉が私の1日を特別にすることを私たちに教えてくれるように、
私にとっての、私の生きる世界を少しだけ変えるなにか。
ある人は、友人にクッキーを焼くことかもしれないし、
ある人は、散歩にでて野花を摘むことかもしれないし、
ある人は、いってらっしゃいのハグで、自分と誰かの小さな社会に明かりを灯している。社会をちょっとすてきな場所に変えている。
ちょっとだけ、世界の幸せが増える感じ。

でも、またあるときに「社会」とやらに対峙すると、とてつもなく大きな壁が目の前にぬんと現れた感じがして怖気づくことがある。
この社会は優しい人が損をする、という言葉には涙が流れるし、
私たちが生きる社会は、誰かの犠牲を伴っているのかもしれないと思うと、とても落ち込むし、
こんな社会にしたい、という誰かの叫びは、現実がそうではないことを映し出しているようで胸が苦しくなる。

社会を変えるのは簡単だ。
お風呂上がりに一緒にアイス食べよ。
その一言で社会は変わる。とても簡単だ。

社会を変えるのは難しい。
社会を前にした個人は無力。
その一言で社会は変わらない。とても難しい。

相反する2つを語る文字の羅列は、どちらも私から見える社会だ。

その難しさを、共に創る、に感じた。

「ねえねえ」という呼びかけで、誰かと共に創れる時間があるし、
「ねえねえ」と声に出すことを恐れ、自分の殻に閉じこもってしまう瞬間がある。

小さな声で

私がCompathが好きな理由。
私がCompathに関わり続ける理由。
それは、「場に出すことで、生まれる世界がある」ということを、知ったからだと思う。

Compath同窓会にて(写真:畠田 大詩さん)

自分の中から湧き上がってきたものを、場に出すのは勇気がいる。
私の大切なものが、誰かにぽいってされちゃうんじゃないかと思うと、怖くて震える自分がいる。
でも、ほいっと出してみたら、案外、その”もの”は私の手を離れて、私も想像していなかったような、素敵な”もの”になることがある。
私たちが生きる世界って、思ったより、悪くないところみたいだ。
そんな出会いがあったから、私はこの場所が好きなんだなと思う。

「自分にとっては取るに足らない話でも、それを物語にすることで、勇気や癒やしをもらえる人もいると思うのよね。」ある日そう話した友人は、誰かの小さな物語を大切にしたい、と言っていた。

そういう小さな物語で、柔らかく、美しく、世界が息をするといいなと思う。

声を張り上げて、痛々しく社会を変えるのではなく、
やさしく、じわりと。
ちょうど水の波紋が広がるように、伝わったらいい。

今日も誰かのサラダ記念日で、世界の幸せがちょっと増えますように。
そんなことを思うのだ。


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