月をみて綺麗だと思えなくなった私、おわったと思った噺
ある夜、ふと、話すことがないなと思ったとき、私って普段何を話してるんだろうと思った。正確には、仕事以外に話すことがないなと思った夜。
私って普段何を話しているんだ?と、ここ数日間考えている。
生きていると、心に残る言葉が届けられることがある。
その言葉を発した人は全然覚えてないかもしれないけど、
その言葉が自分のテーマになったり、
あのときの、あの子の言葉ってこういうことか、と妙に腑に落ちたり、
今の私が考えていることは、ちょうどあの子が言ったあの話だと、もう一度その言葉に出会い直したりすることがある。
その言葉を通して、その人の存在が自分の中でとても大きなものになって、
その人とまた巡り合うようになっている気がする。
たとえ、会ったことのない人の言葉だったとしても、だ。
それは本の一節かもしれないし、詩の一文かもしれないし、歌詞の一言かもしれない。
とある町のバーで弾き語りをする人のライブにいったとき、
同じ歌詞でもその時々で感じ方が違うと言っていて、
私が文章を書くのも、この人が歌い続けるのも、きっと同じ理由なんだと思ったことがあった。
きっとまた帰って来る場所であり、
通過点となる言葉を残しているのだ。
言葉には二つの役割があると思う。
一つは言葉によって世界を広げる役割。
もう一つは言葉によって世界を制限する役割。
今ある感情や、事象、状態、思考に言葉を与えると、今までだったらなかったことにしていたソレに名前ができて嬉しくなることがある。一方で、ソレに名前が与えられることで、身動きがとれなくなってしまうことがある。
だから、私の発する言葉が仕事のことばかりで埋め尽くされるようになったとき、私から仕事をとったら何が残るんだろうと、心がざわついた。
仕事という言葉の世界に閉じ込められてしまった気がしたのだ。
仕事のことばかりに気を取られていると、今目の前で起きている景色を見逃してしまうのではないか、生きているふりをして、生きていないのではないかと、心底自分がつまらない人間になってしまった気がするのだ。
話すことがないな、と思ったあの夜。
空に浮かぶ三日月が綺麗だった。
綺麗だから、月が綺麗ですね、といったのだけど、言いながら心が乾いている自分を見つけた。月が綺麗だと言っているけど、その月のことなんて自分はどうでもいいと思っているんじゃないかと思うと、ひどく寂しくなった。乾いた「綺麗」という言葉を投げかけられて、月はあの夜すねてしまわなかっただろうか。
ある人が、毎年咲く桜は同じようでまるで違うと気づくのに随分と時間がかかったと書いていた。なんて素敵だと思ったし、本当にそうだと思った。
その年桜を見に行って、「今咲いている桜を見て、今浮かぶ月を見たいと思う人でありたい」と、書き留めた。
私は今日の月と明日の月が違う月だと思える人が好きだ。
別にそれだけが人の全てじゃないと思うけど、よく知らない人でも、月を見て綺麗だと喜ぶ人を見ると、お友達になれる気がする。
だから、「綺麗ですね」という乾いた言葉が口をついて出たとき、
そう言いながら自分の心が震えずに乾いていたとき、
おわったなと思った。
私はうぐわああ、となったとき、
英語でいうちょうどoverwheledな状態になったとき、
ある島でみた水平線をのぼってくる真っ赤な太陽や、
雪化粧をした巨人のような木々がひしめく森や、
神々が遊ぶ庭と人が呼ぶ渓谷を思い浮かべて、
私がこれをできようができまいが、今日も陽は昇って沈むし、地球は回り続けるんだと自分を安心させる。
私の好きな海に友人を連れて行ったとき、
「自分がなんで海が好きかわかった言葉がある」と見せてくれた本の一頁で、アインシュタインは、「(自分が自然に溶け込み、ひとつになるように感じるとき)いつも以上に、個人という存在の無意味さを感じるのです。それは幸せな気分です」と言っていた。
ある人は、空の月が欠けても、太陽が欠けても、そんなことは関係ないというかもしれない。
でも、もし明日、空から太陽が落っこちたら、とっても困るだろう。
突然だが、太陽が落っこちることを考えてみた。
普段生きていたら、今日の空の色も、窓から見える景色も、
知らなくて生きられる気がするけど、
この世界には人が関与できることと、できないことがあって、
実は人が関与できない世界が、世界の大半なのかもしれない。
と書きながら、大半って大部分、半分以上って意味らしいけど、
半分は大きくても半分じゃん、なんで半分以上なの、という疑問が湧いてくる。
話を戻すと、私たちは、人間が関与できる世界を生きているうちは、それが全部な気がしているけど、私たちが全部と思っているものは、“大半”にあたる関与できない世界のほんの一部なんだろうなと思う。
その大半のことは自分より大きなことなんだけど、それに触れたときに出会う感情は圧倒(英語でいうところのoverwhelmed)ではなくて、安心という感情だから不思議だ。
ミスター・サンシャインというドラマで、すごく心に残った台詞がある。
ミスター・サンシャインは、併合される前の朝鮮を描いている。
激動の時代の流れの中で、それぞれの立場で、翻弄されたり立ち向かったり、それぞれの世界を必死に生きている人物たちの中で、キム・ヒソンは流れ者のように、あっちへこっちへふらふら、調子の良いことばかり言っている。どこか掴みどころがない人物だ。
陰謀とか、政治とか、戦争とか、そういう大きなことが世界を動かしているときに、ヒソンは月とか花とか、そういうことばかり考えて、まるで世界のことがわかってないように見えるけど、もしかしたら大半の世界を知っていたのかもしれない。
そういえば、ある人が、子供がうまれたら、世界情勢がどうでもよくなったと言っていた。目の前の赤子が世界の全部になったのだろうか。
無用だと言われるもの、必要のないもの、お金にならないもの。
そんなことばかり考えて生きていたいなと思うことがある。
思えば学生のときは、やれ世界だとか、社会だとか、格差だとか、真理だとか、そんなことばかり考えていたように思う。
学生寮のソファーに寝そべって、夜遅くまでテスト勉強をしながら、哲学の教科書を広げて「いま、君が知っていることは、どうやって知っていると言えるんだい?」という禅問答みたいな質問をするイタリアの哲学の教授の言葉を頭の中でぐるぐるさせながら、世界ってなんだーとか考えていた。世界のことを考えながら、小さなソファーの上にしかいなかった。
友人宅に泊めてもらった日、玄関をくぐり抜けるや否や、
「最近、話すことが仕事の話ばかりになって、私の言葉が奪われていく気がするの。どうしたらいいと思うーーー?」とこの世の終わりみたいに騒ぐ私に、
「でも、わかる」と友人はいった。
「なんか、色んなことを諦めちゃった気がするのよね」
「わかる」とまた友人はいう。
足掻くじゃなくて、座っちゃった感覚、といったら伝わるだろうか。
私は占いとかあまりしない人だけど、先日星占いとやらを読んでいたら、どうやら私は「運命と戦ってきた」人らしい。読んでると、運命にキレたりしている。どっかの島では、神事で神様と相撲をとると書いてあった。私は運命と相撲をとっているのか。
運命と戦うってだいぶこじらせた奴じゃないかと別の友人にこぼしたら、大爆笑された。
だけど、その戦いの末に、生涯の喧嘩相手だった運命に贈り物をされるらしい。でもちょっと分かる。今まで、売られてもない喧嘩に挑んで、世知辛いぜ~とか喚いていたけど、なんだか色々落ち着いて、すんとしてしまったのかもしれない。別にそれは諦めたわけではないし、斜に構えてどうせわたしなんて、みたいになっているのではないのだけど、なんだか、すんとしてしまったのだ。
でも、今、話す言葉が仕事ばかりになって、グーグルカレンダーが示す小さな枠の中で起こる会議のことを思って焦ったり、安堵したり、悩んだりしていると、世界のことはどうでもよくなっているのに、ものすごく現実を生きている気がする。
そんなことをうだうだ呟いていると、
ソ・ソ・ソクラテスか
プラトンか~
ニ・ニ・ニーチェか
サルトルか~
みんな悩んで大きくなった~
これ、知ってる?なんだっけな、そういう歌あったよね。
と父親が絡んでくる。
「知らないよ!」と言いながら、
たまには何のオチもない、うだうだとした日記をつらつら書いてみるのも、生きている一部かもしれないと思って、ノートパソコンを開いてペチペチしている。
「仕事以外に話すことがないのー私はいつも何を話しているのー?」という訳のわからない嘆きで、結局話し続けている私を横目に、今日も陽は西の方へ傾いていく。