今を生きるとはどういうことか考えてみた
百年続く風景とは。
住む人が変わっても、在る家が代わっても、風景は変わらない。
東川には、世代を越えた概念を感じる場所がある。
ここは地球のど真ん中。
耳をすませば、大雪山から、どくどくと脈打つ心臓の鼓動が聞こえてくるようだ。
わたしが生きるより、ずっと長い年月を含む家で、”風景の間貸し”をしている家の一室。ベットからむくりと起き上がり、”今”を考えた8日間の話を少ししてみよう。
School for Life Compathの「みみをすます -find our voice-」という8日間のプログラムに参加した。今回のメイン授業は、「心の中の歌声に耳を澄ます」という詩と表現の授業だった。
詩を聴いて、
森の中で耳をすまして、
持ち帰りたいと思うような、心ひかれるものを探して。
そうすると、言葉や表現が湧いてくるでしょう、それを表現すればいい。
と言われても、特に湧き上がってこない。
心がふわふわして、地面に足がついていないような感じだった。
表現は、
歌でなくてもいい。
踊りでなくてもいい。
文章でなくてもいい。
着ているものも、身につけているものも、
表情も、沈黙も、
表現をしないということも、
全部表現だと話す俳優さんの言葉を聞きながら、
何も湧き上がらいなら、湧き上がらないままに放っておいた。
そしたら、窓から見える色づいた落ち葉が気になって、
さっきいった森から、なんとなく気乗りしなくて、落ち葉を拾ってこなかったのを少し後悔した。
落ち葉が気になったわたしは、
2階の教室から、外へ飛び出してみた。
飛び出して、気になる落ち葉を拾い集めてみた。
そしたら、いろんなアイデアが浮かんでは変わり、浮かんでは変わり。
それをそのままに放っておいて、落ち葉を拾い集めた。
8日間がはじまる最初の日に、誰かが、秋がおりてきたと言ったのを思い出して、雪と落ち葉で色づいた大雪山をつくった。
大雪山をつくったら、東川の詩をみつけて、声に出して読んでみたくなった。
大雪山は、生きる源みたいに思えたから、心臓の音を流して、
野山を駆け回りはしゃぐ子どもたちの姿を見ながら幸せを考えたから、子どもの声を流した。
きとうしの森の小さな小屋で歌った時間が愛おしかったから、歌声を流した。
そうやったら、わたしの表現になった。
いろんな人の表現を体験すると、
表現が向く矢印や、時間が違うことをしった。
ある人は自分の内面へ向けた表現をして、
ある人は自分の外側の世界へ向けた表現をした。
またある人は、ここ最近の1年を表現して、
またある人は、この8日間を表現した。
わたしの表現は、どこにも向かっていなくて、とにかく今だった。
そのとき思ったものを組み合わせて、ばばんと出して。
そこには過去も未来もなくて、今だけだった。
わたしには、焦って未来に足を速めていたときがある。
過去に負けないように、未来に置いていかれないように、走って、泳いで、息が切れた。わたしが初めてCompathに参加したのは、そんなときだった。
全部やめておやすみした初夏。そして、夏にこの町で8日間の生きるをつくった。全部吐き出して、全力で今を楽しんだわたしは、そのときから、今までの15ヶ月、ずっと”今”の連続を生きているのだと気づいた。過ぎていく今という時間を、その瞬間に生きている。
「なんか、いいね。今を生きているって感じ」
ホルモンが焼かれた網の上にゆらゆらと煙が立ち上がる。
去年の夏。煙の先の友人は、Compathから帰ってきて、旅を続けるわたしを見てそう言った。今を生きていると言われて嬉しかったけど、「わたしは立ち止まるのが怖い」と話す友人の言葉に少し心が暗くなった。
そして、今。季節が巡って、次の夏がきて、そして秋がきた。
その秋にまた東川に戻ってきて、表現をしたらやっぱり同じく”今”を生きていた。
前に”今”を生きたときは、わたしの声を誰かにきいてほしくて、静かなふりをして、吐き出すように話していたけど、今回は、ただ”今”を生きたように思う。
言葉が湧き出てくるでしょう、と言われて、
それはどういうことなのだろうと思っていたけれど、
秋の東川で過ごした人たちとの最後の時間には、
書き留めたい言葉が溢れていて、
湧き出してくる言葉があったから、
あの人が言った言葉の意味が、今なら分かる気がして、ただの表現のような、詩のような、言葉の連なりのようなものを書いた。
それを最後に書いておく。