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2023年愛について考える

「愛ってなんですか?」と聞く人に会った。
こういう話って、みんな答えが分からないことなのに、人と話せないことだから、と愛について聞く人に出会った。

長テーブルの反対側で、自分の考える「愛」を答えている人たちの声を聞きながら、友人に勧められて半分で止まっているエーリッヒ・フロム『愛するということ』の一節「与えること自体がこのうえない喜びなのだ」という受け売りのような「愛」の答えを思い浮かべていた。
まだ半分しか読んでいないと知ったら、「ルソーと比べたら、フロムはめちゃめちゃ読みやすい」「君にこれがわかるかな」とからかいながら、『愛するということ』をゆうパックで送ってきた友人に、叱られそうだ。

今年のはじめ。レゴをつかったワークショップに参加した。

「ふるさと」をつくってください。

はて。
ふるさとという言葉があまりにもしっくりこない。
一番最初に思い浮かんだ池の景色を表現した。

右上が羽を広げたハクチョウの親子。
その前の黄色い小さいブロックが幼い私。左側のオレンジの平たいブロックが母。
右手前の緑のブロックが父で、傍らにある灰色と黄色のブロックが合わさったのが父のカメラ。
背後に散りばめたブロックは父が撮った写真たち。

おそらく当時は怪獣のように見えていただろう白鳥と対峙している自分。
心配性の母は私の側にいて、父は遠巻きに私たちの写真をとっている。
白鳥にあげるパンを自分でぱくぱく食べてしまう私に、困ったように笑いながらなくなっちゃうよと言う母。ふるさと、という言葉はあまりしっくりこないけど、それが思い浮かんだ。だからつくった。

その翌週。その池にいた。

2023年1月

別にレゴでつくってみたから、というわけではないけど、なんとなく行ってみた。たまにそういうことがある。ふるさと、という言葉はしっくりこないけど、でも自分が生まれ育ったまちにふらっと行きたくなることがある。

小学校のときの先生に会い、母の友人に会った。
「こんな日が来るとは」
「育ったなー」と言われた。

すいとんが美味しい定食屋のおばちゃんに会ったら、普段は寝ている時間まで店をあけて、ごちそうを準備してくれた。次の日の朝ごはんまで準備してくれた。

小さいときは、〇〇先生で、〇〇のお母さんで、お父さんがよくいく定食屋のおばちゃんだった大人の人たちが、
自分が大人になると、「その人」として、そこに在る感覚が少し不思議だった。

当時大きく見えていた先生も、そのときは今の私と大して変わらない年齢で、尖っていた話をきいたり。
〇〇のお母さんという顔だけ知っていた母の友人が、母の友人であり、私の友人のような存在になったり。
お父さん越しに会っていた定食屋のおばちゃんに、自分で会いに行くようになったり。

ダサいところ、悩みや嘆き、ささいな幸せも聞いた。全部ひっくるめて、みんな生きていた。

ふらっと出かけた旅の途中。随分と長い間居候させてくれた友人宅で勧められた『小さな徳』というエッセイ。

子どもを育てるにあたって心にとめておくべきは、生きることへの愛を子どもが決して失わないようにすることだ。人生に向ける愛は、さまざまな形をとりうる。ひとりぼっちで内気でやる気がないからといって、その子が、人生への愛を欠いているとか生きることへの不安に苛まれているとはかぎらない。ただ単に、自らの天職に向けて態勢を整えようと懸命に準備しているだけなのかもしれない。そもそも、人生への愛の最大の表現でないとしたら、いったい何が人間の天職だろう。

子どもが天職を見つけるのを手助けしたいと思ったら、ありうる現実的な方法は、おそらくこれしかないだろう。私たち親自身が天職を持ち、それを理解し、愛し、情熱を傾けてそれに打ち込んでいることである。なぜなら、生きることへの愛が、生きることへの愛を生み出すのだから。

『小さな徳』ナタリア・ギンズブルグ 著/白崎容子 訳

「愛ってなんですか?」と聞く人がいたとき、
真っ先に思い浮かんだのは、他者への愛だった。
でも、ナタリア・ギンズブルグは生きることへの愛を語った。

白鳥の池をレゴで表現したとき、散りばめたブロックで父が撮った写真を表現した。カメラ好きの父が撮りためた写真の中に、愛を感じたからだ。

学生のとき、人生というやたらと壮大なテーマに、やたらと悩んだことがあった。そんなとき、父が撮った写真を見ながら、「ああ、私愛されてたんだ」と知って、悩みが解けたことがある。

ふるさと、という言葉はあまりしっくりきてないけど、きっと私は「愛」を感じた自分の根っこのようなあの池をふるさとだと思ったから、その場面をレゴで表現したのだと思う。

ふるさとという言葉と、あの池を繋いだのは、両親から私への愛だった。

でも、今回の気まぐれ旅で感じたのは、ちょっと種類の違う愛だったと思う。両親から私への愛、という直接的で、その存在に気づいたときに自分が全肯定された気持ちになったり、熱くこみ上げてくる、そういう類のものではなくて。

生きることへの愛を見せてくれた、あのときの大人たちに会ったという感覚。
それは、別に見せようとして見せていたものではないと思うけど、見えていた。
それは、劇的なものではなく、じわりとくるものだった。

あのときの大人たちは、今でも私の人生の先輩であるが、大人ではない同じ人間に見えた。彼らは、あのときも、今も、人生への愛を向けていて、その愛が、私が人生に向ける愛を生んだのだと知った。

2022年は生きるを考えた。
2023年は愛について考える年なのかもしれない。

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