”女になる”~「プリティ・ウーマン」
男と女。
この関係は有史以来、ずっと問われ続けていた問題なのだろう。
ことさらに平等を訴えるより、お互いに異なる部分や魅力を尊重していく方がよりスムーズで、何より楽しいのではないだろうか。
今回は、1990年公開の「プリティ・ウーマン」
昔からこの映画の存在は知っていたものの、あまりの定番作品ということで見過ごしていた。観てみると安定の展開。もちろんいい意味で。主人公の仕事が企業買収会社の社長という設定は、1990年といえどまだ80年代の残滓も感じられるところか。似たようなお仕事モノ映画はこの時代毎年のように作られていた気がする。
ただ、最後まで気になったのは、主役二人のこと。スタイリッシュなのはいいが、、ある意味でミスキャストでは?とも思ってしまう。
まずリチャード・ギアは、その相貌からして優しい。ばりばりの企業買収とかコールガールとともに過ごすというイメージからはかけ離れてはいないか。
そしてジュリア・ロバーツ。この人の実際は知らないが、その顔立ちや佇まいはとても品がある。コールガールには見えない。このストーリーのポイントの一つは、コールガールがだんだんと洗練されていく過程にあるのだろうが、もう一足飛びに麗しきレディにまで突き抜けてしまっている。まあ、それはそれで絵になるのだけれども。
ところでこの作品には元ネタがある。
オードリー・ヘップバーンの「マイ・フェア・レディ」?ーさらにその元。
戯曲の「ピグマリオン」?ーもっと昔。
それはこの絵のモチーフともなっているギリシャ神話である。
ジャン=レオン・ジェローム「ピグマリオンとガラテア」(1890)
彫刻師のピグマリオンは美しい女性の像を作り愛するようになっていた。愛の女神アフロディテはその像に命を与え人間に変えてしまう。ガラテアと名付けられたその女性とピグマリオンは仲睦まじく暮らしたとさ。
現代風にいえば、オタクが愛玩していたフィギュアと結婚するという話である。男性が女性を”作り”、”仕立てて”いくというストーリーがここから来ている。
どうだろうか。現代の感覚からすると、ちょっと受け入れがたい点もあるのではないだろうか。しかし、少し見せ方を変えれば先の映画のとおりなのだ。
女に生まれるのではない、女になるのだ。
かつてボーヴォワールはこのように述べたが、それは数千年も変わらぬ実相に対する苛立ちなのか、もしくは諦観なのか。
それにしてもこの映画のように、お下劣なセリフやシーンがふんだんに出てきても作品全体はクールで一定の品性を保てるという芸当は、日本ではまずムリである。この違いはどこにあるのだろうと、いつも思ってしまう。