「違うこと」をしないこと #6
私には信仰もなければ霊感もない。
けれど、言霊とおばあちゃんの力は信じている。
頭がカッカして、胸のうちがむしゃくしゃして、腹の中が真っ黒な感情で埋め尽くされている時も、できる限りは口には出さない。
それはそれは中では罵詈雑言の嵐が吹き荒れ、制御不能になることも多々あるが、口にするか否かは自分で決められる。
言葉にして吐き出せばそれは力を持って、さらに自分のところに返ってくる。
なぜか知らないがそうなるのだ。
昔から悪いことをすれば必ず見つかるし、決まって痛い目にあう。
こればかりは割とこどもの頃に悟って、おばあちゃん(生きている時から神様のような存在だった。全て見透かされていると感じるのだ)に誓ってまっとうな人間であろうと生きている(努力している、という感覚の方が近いかもしれない)。
結婚してこどもを授かり、地元に戻ってからも私は一生懸命働いた。
それしかしてきていないから、そうしていないと社会から見捨てられたようで不安になった。
矯正プラグスーツ姿が板につき、そちらが本来の自分なのだと自分でも感じるくらいだった。
日常にネガティブで繊細な私はあまり顔を出さなくなった。
好奇心旺盛な私は、東京に未練があり都内で働いたりもした。
やはり飲食が多かった。
仕事は楽しかったけど、30も半ばを過ぎるとさすがに伸び代も体力もなくなってくるし、人生のお手本になるような憧れの先輩にももう出会わない。
散らかった部屋やカラカラの植物、毎日毎日朝から晩まで時間に追われる日々にさすがに違和感を覚えるようになってくる。
40まではがんばろう、何となくそう決めていたし、口にしていた。
つまり、インプットはその辺まででいいかな、と思っていた。
そして40の年にコロナがやってくる。
都内で飲食業をしていた私は、緊急事態宣言を受けてしばらくの間自宅待機となった。
正直なところ、ありがたかった。
学校も休校になっていたし、こんな状況でまで働きたいというモチベーションも使命感も私にはなかった。
朝はゆっくり起きて、毎日植物に水をやり、ヨガしたり掃除したり模様替えしたりペンキ塗ったり、こどもたちと三食作ってごはんを食べた。
世界はみんな困っていたから不謹慎だと思うけど、私はすこぶるハッピーだった。
プラグスーツに鞭打って働いていた私は、未練を残した東京も仕事ももういらないかもしれないと気づいた。
私が欲しかった生活はとてもシンプルなもので、スーパーとスタバがあれば生きていけると思った。
40まではがんばろう。
それが現実のものとなった。
つづく。