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【所感】飯田隆「言語とメタ言語」

以前書いたnote「【読解】飯田隆「言語とは何か?」」では未読だった、飯田の「言語とメタ言語」という論文を、まずは流して読んだ。訂正の意味を込めて本noteを書く。
「言語とメタ言語」では、「「言語の外に立つ」ことはできないが、「言語の外には出られる」(『分析哲学これからとこれまで』148頁」)」という主張がなされていた。これは、世界(実在)の側を、人間(認識)が、正しく指し示すことができるのか?というある種の認識に関わる懐疑論に対する応答とみなすことができる。つまり、言語を使って実在の物を指し示すことができるのか?という懐疑にに対して、可能だ、と答えていることになる。その真偽はさておき、飯田が「フラストレーション」と呼んでいたものと、私が呼んでいた「フラストレーション」は別物であることがわかってきたので、追加情報をここに記す。
私は、飯田のように「言語は実在に届いて認識を成立させられるか?」という認識論的な問題を気にしているわけではない。そうではなく、どのような理念も、真理も、いつの間にか手元に渡された言語をもってしか構築できず、その言語の正しさは証明されぬまま、ただただ神秘として受け取るしかない、というフラストレーションなのである。
言語はあらゆる理性的な活動に対して、超越論的に働いているという事実がある。言語は理性的な活動を可能ならしめる条件なのである。私たちは言語の仕組みに基づいてしか考えることができない。あらゆる思想、あらゆる哲学、あらゆる世界観は言語の枠組みのうえで作られた構成物なのである。だから、そもそも「認識論的な問題」をたてる刹那、不自由さや強制を感じるということなのである。
ここから誘発される視点が、言語原理主義とも言うべき神話である。言語はあらゆる世界観を予め規定しているという神話である。一般的には、言語は道具であるといわれる。過去の祖先が発明して、代々引き継がれてきたものであり、ものを指し示したり、仲間と協調して活動するためだったり、抽象的な概念を構築するために使われてきたものである。私たちは動物から人間になった。その過程で言語を身につけた。
だが、本当にそうだろうか?そうした、前提や発想すべてが、予め織り込まれた状態で、人間に与えられていたのだとしたら?言語は人間が発明した道具などではなく、私たちはそうした推論を言語によって誘発されただけであり、むしろ先に整備済みの言語が忽然と、私たちがものを考える前に世界にあったのだとしたら?言語は、祖先が作ったものでも、ものや概念を示すための道具でもない。その発想自体、私たちは言語によって導かれているに過ぎない。むしろ、あらゆる経験(人間における経験は理性的な営みである)を可能にする言語をもとに、私たちは世界を構成しているのである。そして、その外側はない、ということもありえるではないか。この場合、先の「言語の外」などは、まさにありえない。なぜなら、「言語の外」も「実在」も言語ではないか。
この世界観では、世界はエーテル的に満たされた言語で充満するのである。もちろん、ただの可能性である。だが、惹きつけてやまない可能性でもある。

※参考文献:飯田隆『分析哲学これからとこれまで』(2020)勁草書房

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