不健全なタイプ1の分析 その2
ドン・リチャード・リソ「性格のタイプ―自己発見のためのエニアグラム」春秋社 より
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■強迫観念にとらわれた偽善者
不健全なタイプ1は、今や、どんなも のであれ、その怒りの焦点となったもので頭がいっぱいになっている。
強迫観念的な考えが、繰り返し彼らの心をよぎる。強迫観念は、みだらで、神聖を汚し、あるいは、暴力的であるかもしれないので、彼らが意識して心に抱く信念にとって、大きな脅威となる。その強迫観念の強さは、神経症のタイプ1を非常に悩ませるため、彼らは悪魔にとりつかれたと感じるかもしれない。ある意味では、神経症のタイプ1は 「なにかに駆られて」いる。もっとも、彼らの悪魔は、対処することを彼らが自分に許したことのない抑圧された感情と衝動である。さらに、神経症のタイプ1は、自分を本当に混乱させているもの(他人に対する憎しみ)を知ることができないため、強迫観念的な考えを解消することができない。
自分の真実の問題以外のなにかに考えを集中させようとして、神経症のタイプ1は、清潔さ、すなわち、自分が抑圧した衝動や感情に関連のある、他の種類の 「よごれ」や無秩序を根絶することにとりつかれる。性的な感情や肉体の統御に対する強迫観念は、食べ物に置き換えられ、無食欲や食欲異常亢進になる可能性がある。また、彼らは、強迫衝動的に掃除や計算に身を打ち込むことがある。彼らの行動の衝動性は、皮肉なことに、その通常の秩序正しさや自制心と矛盾する。
神経症のタイプ1が、そのほとばしる衝動によって無意識 のうちに支配されているときは、彼らは、たとえば、絶対的な純潔の美徳を説きながら衝動的な性的行動に走るなど、明言したその信念と反対のことをする可能性がある。ポ ルノを見ることを 「強制」された風紀係、強姦者のどぎつい話を聞かなければならない性研究者、万引者である裁判官のように、彼らはまさに自分が非難することそのものをする。衝動的なタイプ1は、その道徳的な強さがきわめて強固で、試練に耐えることができることを証明するために、誘惑に身をさらすことさえある。彼らはそれを二通りのやり方で行う。「美徳 の名のもとに悪徳とたわむれ」、ときには屈服する。
■懲罰的な復讐者
誰かが、もしくは、なにかがとても受け入れがたい感情をかき立ててしまったため、神経症のタイプ1は、その感情を直接に処理することができない。そこで彼らは、その神経症的な葛藤を、他人の悪行であると自分の目に映るものに対する怒りを自分自身にかき立て、騒動の目に見える原因を取り除く試みをすることによって 「解決」する。しかし、実際にそこで危うくなっているものは、彼ら自身の精神の正常さである。
神経症のタイプ1の偽善は非常に深く、強迫観念は非常に強く、衝動は非常 に差し迫ったものであるため、彼らは後に引くことができない。自分が間違っていたかもしれない可能性は、彼らの誇りにとって、到底耐えられないことである。以前にもまして、彼らは自己を正当化しなければならない。他 の人たちは、その間違いが証明されなければならないだけでなく、罰せられなくてはならない。そして、他の人たちは、憎むべき罪人であるから、 これに有罪を宣告し殺しても、罪とはならな い。
彼らの正義の報いの対象となった人々に対しては、どんな愛情も、慈悲も、人間的共感も、決して示されることがな い。神経症のタイプ1は非人間的なまでに残酷になり、そのもてるどんな力を使っても、他の人たちが確実に刑罰を受けるようにする。「当然受けるべきものを受けているにすぎない」というのは彼らの結集の叫びであり、目的は手段を正当化するのであるから、どんな手段を使ってもよい(ことになる)。
完全に無慈悲で、人を許さなくなって、彼らは不当な扱いと残忍行為を始める。それらを人格をもたない行為者 のように演じようとする。正義それ自体が彼らが人をサディスティックに罰することの責任をとるべきであるというかのように、神経症のタイプ1は行動する。そのねじ曲がった倫理が今やそれを公認するため、彼らは人を投獄し、拷間にかけ、火あぶりの刑にすることができる。
非難されることを恐れるこの性格のタイプが、無慈悲なまでに人を非難する。かつてあれほど正義に関わった性格のタイプが、巨大な不正の下手人になってしまっている。そして、かつて理性の権化であった性格のタイプ1は、今や、完全に非理性的である。