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宗教改革以後の歴史の展開-その2

水村光男「この一冊で世界の歴史がわかる!」三笠書房 より
■フランスの宗教争乱(ユグノー戦争)
フランスの新教徒は、いうまでもなくカルヴァン派である。彼らは旧教側から 「ユグノー」と呼ばれたが(その意味は不明)、実態は勤勉な中産階級で、国家権力に対する教会の独立を強調する戦闘的カルヴァン主義でもあった。

有能なアンリニ世(位1547〜59)は、ドイツの新教徒を援助するかたわら、本国では新教徒への弾圧を強化した。

一方、新教側でも、モンモランシー家のコリニー提督や、 スペインに隣接するナヴァール地方で王を称していたブルボン家など有力貴族がついた。こうしてヴァロワ王朝のもとで宗教内乱(ユグノー戦争 1562〜98)が生じる。

1559年7月、アンリニ世が不慮の事故で急死する。後継はその長子でわずか十五歳のフランソワニ世であったから、実権はロレーヌ地方の大貴族ギーズ公家に握られた。

ギーズ独裁のなかでのユグノー迫害は恐怖政治となったが、新王の母后でイタリアのメディチ家出身のカトリーヌ=ドゥ=メディシスは、ギーズ専横に反発して彼らを宮廷から追った。60年、フランソワニ世が夭折し、その弟 シャルル九世が十歳で王位を継ぐと、母后が摂政となった。

62年、シャンパーニュ地方ヴァシーでユグノーの大量虐殺がおこったのを契機に、ユグノー戦争が始まった動と反動、非寛容とさらなる狂信がこれに続く72年8月、母后は再びギーズ公家と結んで新教側貴族を一網打尽に殺害させる「サン=バルテルミーの虐殺」を引き起こした

74年、 シャルル九世が夭折して、弟アンリ三世が二十三歳で即位した。彼はユグノーヘの宥和策に出たが、新教側のナヴァール王アンリに加え、「旧教連盟」を組織したギーズ公アンリも王位を窺って反国王派となり、「三アンリの戦い」という複雑な権力闘争となった。

88年にギーズ公アンリが王によって暗殺された翌年、今度は王がイエズス会士によって暗殺されてヴァロワ朝が断絶した。そこでヴァロワ王女を妻としたナヴァール王アンリが、アンリ四世を称した。

しかしパリ市民をはじめ、旧教側は新王に反対したため、新王は 「国家なき王」として各地を転戦せざるを得なか った。

国民の大多数を占めるカトリ ックに配慮して王自ら92年に旧教に改宗、翌94年にシャルトルで戴冠式を行なったのち、パリ入城を果たした。

こうして正式にブルボン朝が成立した。国内の旧教側を一貫して支援したスペインと講和した98年、「ナントの勅令」を発して新教徒に大幅な信教の自由を認めたから、ここにようやくユグノー戦争は終結した

■新旧両教徒の宥和から王権の強大化 ヘ
アンリ四世 (位1589〜1610)は新旧両教徒の融和に成功すると、動乱に倦んでいた国民によって歓迎されたから、国内の統一は急速に進展した。だが、狂信的な旧教徒に暗殺され、国民に強く愛惜された

あとを継いだルイ十三世(1610〜43)は九歳で即位したため、母后マリ=ドゥ=メディシスが摂政となった。

1617年から王の親政が始まるが、24年にはリシュリューが宰相に任命された。彼は、高等法院を圧迫して大貴族の権力を奪い、再び王権に反抗しはじめたユグノーを弾圧するなど、王権の強化に努めた。

また、王権を抑制する三部会も、ブロワに開かれた(1614〜16)のを最後 に、フランス革命直前の1789年まで停止されたままであった。対外的には、ドイツ三十年戦争に介入した。(1635〜)

■ギーズ家 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ギーズ家はロレーヌ公国の君主家門シャトノワ=ロレーヌ家の分家で、ロレーヌ公ルネ二世の次男であるギーズ公クロード(1496年〜1550年)を祖とする。クロードの長女マリー(1515年〜1560年)はスコットランド王ジェームズ五世の王妃となり、スコットランド女王メアリーの母となった

1558年、王太子フランソワ(後のフランソワ二世王)はスコットランド女王メアリーと結婚した。翌1559年にフランソワ二世が即位すると、ギーズ公フランソワと枢機卿シャルルは王妃の叔父として、その短い治世の間にフランスの国政を主導した。ギーズ家の国政壟断は、ユグノーとブルボン家によるギーズ家排除を狙ったアンボワーズ陰謀事件を引き起こした。1560年にはカトリック勢力がユグノー勢力に勝利し、ギーズ家はアンボワーズ陰謀事件の参加者に苛烈な処罰を加えた。フランソワ二世の死後、ギーズ家一門はこぞって摂政王太后カトリーヌ・ド・メディシスの宗教寛容政策に反対し、このことがユグノー戦争の勃発につながった

■ナントの勅令 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この勅令によってユグノー戦争は急速に収まりを見せ、フランスの国家統一の出発になった。戦費の縮小や商工業におけるユグノーの活躍もあって政治情勢のみならず国家財政も安定し、十七世紀のフランスの大国時代を作り上げた

しかしプロテスタント信徒はこのとき、自分たちの教会を持つことは許されたが、それとは別にカトリック教会にも十分の一税を納めなければならなかった。

1685年、「太陽王」ルイ十四世はフォンテーヌブローの勅令によりこの勅令を廃止し、カトリック中心の権威主義的な国家へと逆戻りさせた。これによって、プロテスタント信徒の大半はネーデルラントなどの国外へ逃れ、商工業の担い手を失ったフランスの衰退を招くことになった。

プロテスタント信徒は産業の中核を占めていたため数世代にもわたる財政の悪化を招くことにもなり、それを補うための増税政策に反発した貴族・聖職者や市民・一般国民などの不満が爆発したフランス革命の遠因ともなった

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