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サド・マゾヒズム的共棲

E.フロム「自由からの逃走」昭和26年12月30日 初版/昭和40年12月15日 27版(新版)/昭和62年10月20日 94版/東京創元社 
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このマゾヒズム的な傾向は、しばしばただ単純に病的で非合理的だと感じられている。しかしその傾向は合理化されることが一層多い。

マゾヒズム的な依存は愛とか忠誠とかと思われ、劣等感は実際の欠点の適切な表現と思われ、悩みはすべて変化しない環境のせいだと思われる。

このマゾヒズム的傾向とならんで、その正反対のもの、すなわちサディズム的傾向が、だいたい同じような性格のもののうちにみられる。それは強さも異なり、意識されることも、されないこともあるが、しかし見間違うことはない。サディズム的傾向には、互いに絡み合ってはいるが、三つの種類がある。第一には、他人を自己に依存させ、彼らに絶対的無制限的な力を奮い、「陶工の手のなかの陶土」のように彼らを完全に道具としてしまうものである。

もう一つは、他人を絶対的に支配しようとするだけではなく、彼らを搾取し、利用し、盗み、はらわたを抜き取り、 いわば食べられるものはすべて食べようとする衝動から成り立っている。この欲望は、物質的なものにも非物質的なものにも、たとえば人が提供する感情的・知的な性質のものにも向けることができる。サディズム的傾向の第二のものは、他人を苦しめ、または苦しむのを見ようとする願望である。この苦しみは肉体的なものもあるが、精神的な苦しみであることが一層多い。その目的は、実際に人を傷つけ、滅ぼし、困惑させること、或はそのような状態にある人間を見ることである 。

サディズム的傾向は、明らかな理由から、社会的にはずっと害のないマゾヒズム的傾向よりも、一層無意識的であり、一層合理化されることが多い。

しばしばそれは、他人に対する過度の善意、過度の配慮の結果であるとして、覆い隠される。

もっとも多く見られる合理化は次の通りである。「私がお前を支配するのは、お前にとってなにが最善であるか、私が知っているからだ。お前の利益のために、お前は私に従うべきだ」。あるいは「私はこのような素晴らしい独自の人間であるから、私は他人が私に依存することを期待するだけの権利をもっているはずだ」。搾取的な傾向を隠すためには、もう一つの合理化の仕方がある。「私はお前に沢山のことをしてやった。今度は私はお前から欲しいものを盗ってもよいはずだ」。サディズム的衝動のもっと攻撃的な形は次のような二つの形で合理化される。「私は人から傷つけられた。人を傷つけようとする私の願いは復讐にほかならぬ」。あるいは 「最初に殴りつけたのは、私や私の友人が傷つけられる危険を防ぐためだったのだ」。

サディズム的人間と、彼のサディズムの対象との関係において、次のことが見逃されることが多い。それ故それはここでとくに強調してもよいであろう。それはサディズムの対象(マゾヒズム的人間)への彼の依存である。

マゾヒズム的人間の場合には、はっきりした依存が見られるが、サディズム的人間の場合には、それが逆になっていると我々は期待しやすい。(思いがちである)彼はこのように強く支配的であり、彼のサディズムの対象はこのように弱く屈従的であるからには、強者が彼の支配するところのものに依存 しているとは考えられないかも分からない。 しかし、綿密に分析すると事実はそうである。

サディストは彼が支配する人間を必要としている。しかも強く必要としている。というのは彼の強者の意識は、彼が誰かを支配しているという事実に根差しているから。

この依存はまったく無意識的であるかも分からない。こうして、たとえば、ある男はその妻を酷く残酷に取り扱い、繰り返し、いつでも家を出て行ってもよろしい、またそうしてくれたほうが有難いといっている。ときには妻は酷く痛めつけられ、家を出ることさえ敢えてできない。それで二人とも、結局、男のいうことが真実であると信じている。ところがもし妻が勇気を奮い起こして、家を出ると宣言するや否や、二人にとって、まったく予想しなか ったようなことが起るであろう。男は絶望的になり、打ちのめされ、出て行かないでくれと哀願する。彼女なしには生きていけぬといい、どんなに愛しているかなどという。通常、女は自己主張の勇気をなくし、夫を信じようとし、決心をひるがえして、止まる。するとまたやり取りが始まる。男は古い行動を繰り返し、女は一緒に暮すことに困難を感じ、爆発し、男がまた絶望し、女が止まる。

このようなことが何度も繰り返されるのである。何千何万という結婚やその他の人間関係がこの循環をくりかえしている。



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