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〖短篇小説〗ラッコ

某氏は、ラッコである。一見、ヒトである。顔立ちも、ラッコ風ではない。あえて言うならば、猫風である。目はやや吊っていて、鼻はスンともフンとも鳴りそうな様子である。でも、自分はラッコなのだという。本人がそう言うならラッコなのだろう、と思いながら、普段は忘れている。ただ、ときどき某氏が「私、ラッコなので」なんて、話の合間に、ふいに、自然と言うものだから、そんな時には、そういえばそうだった、くらいの感じで思い直すのである。
某氏とは、川沿いで出会った。気ままな散歩途中、よく一緒になるものだから、こちらから声をかけたのである。
出会ってから、そろそろ2年経つ。
2年経ったので、鍋にも行けるようになった。
「私ラッコなので」
某氏が鍋をつつきながら言った。
ニンゲンでいたくないんですよ。某氏は続けた。ほかのニンゲンが悪さをするのが、いたたまれないんです。
悪さって、何。
「悪さですよ。悪いこと。」
ラッコはしないの?悪いこと。
「しないです。浜を追われて、海を追われて、昆布にしがみつくしかなくても無駄なことはしません。悪さなんて、そんな無駄なこと。
ラッコは、ヒガイシャです。
私も、ヒガイシャとして生まれたかった。カガイシャは、嫌です。ニンゲンは、嫌です。」
某氏は、そこまで言うと、突然テーブルに突っ伏した。突っ伏して、しばらく静かでいた。その後、しくしくめそめそ言い出した。ぐずぐずいって、輪郭がぼんやりし始めた。髪と上着の境目が溶けて、毛皮のように見えだした。私は御手洗に立った。

帰ってくると、某氏はご機嫌にゆらゆら揺れながらお酒を啜っていた。涙はすっかりなくなって、ついでに鍋の中身もなくなっていた。

別の日、梅小路公園へ行った。この日は某氏から誘われた。ちょうど桜の季節で、人出があった。公園内を七条大宮まで歩いていくと、左手に水族館がある。某氏がラッコであることを思い出して入るか尋ねると、ものすごい形相で首を横に振った。某氏は水族館をジンルイノエゴノカタマリだと言った。某氏をラッコ仲間にあわせたかっただけだ、と弁明すると、「この水族館にラッコはいませんよ。」と一蹴された。つり目の角度がいつもより急になって、ますます猫じみている。なんだか桜が、ハラハラ、というより、モチモチと、散っているような心持ちになった。時間がねばって、空気もねばって、花びらを絡めとっては捏ねていくような様子である。
気づくと、隣に某氏はいなかった。はぐれたか、どこかへ飲み物でも買いに行っているのかと思い、暗くなるまで待ったけれど、某氏が再び現れることはなかった。

帰宅後、某氏から連絡があった。
「本当のラッコになりました。さようなら。」

それからずっと、私は某氏が羨ましくて仕方ないのである。これまで、某氏が自称ラッコであったことについて、私は何も感じていなかった。どうせニンゲンだと思っていたのである。いくら自分はラッコだと言えど、実のところはニンゲンで、それは絶対に逃れられない事実だと思っていたのである。しかし、某氏はラッコになったらしい。

秋になって、イイダさんと知り合った。イイダさんは、つり目なところといい、その風貌がなんとなく某氏に似ているのである。しかし中身はまったく似ておらず、おしゃべりがはかどるタイプではない。カナで言うと「ム」とか「ヌ」とかいう感じである。
私は、見た目が某氏に似ているイイダさんを、少し好きだった。好きだったが、中身が某氏に似ていないイイダさんに、イライラしてもいた。

ある時、市役所前でイイダさんと待ち合わせた。地下の店をひやかして、寺町通をぶらぶらし始めたころ、ふと魔が差して、私は言った。
「私ラッコなんですよ」
イイダさんは、エッという顔をして、でも声には出さずに、私と数歩歩いた。それから、
「では私はイイダコです」と言った。
「イイダだけに」と言った。
いつもあまり喋らないイイダさんが、真っ直ぐに言った。
その瞬間、イイダさんはどうしようもなくニンゲンで、私もニンゲンだった。
「私はラッコに生まれたかった」
ヤケになった私は、ちょっと大きな声で言った。
「ラッコはヒガイシャだから。
ニンゲンはカガイシャだからイヤです。」
イイダさんは、ちょっとモヤッとした顔になった。私は調子づいた。
「ラッコはニンゲンに毛皮をとられ浜を追われ、海で暮らしています。そしたら今度は船から石油ですよ。石油に塗れて沈んでいったんですよ。」
イイダさんのモヤッ顔が、なぜかちょっと緩んだ。
私はムキになった。ムキになったが、他に言う言葉が見つからなかった。
しばらくして、イイダさんは言った。
「ラッコには悪いことをしました。ごめんなさい。もうしません。」

寺町通がおわり、大通り沿いをプラプラしながら、私はイイダさんに絡んだ。
「どうして謝るの」
イイダさんはムとヌの感じで何も言わない。
「イイダさんは、ラッコを殺し毛皮を剥いでもないし、石油を流してもいないのに。」
言い募った私に、イイダさんは
「もし私がラッコだったら。想像すると、胸が痛むからです。」
と言った。

四条河原町。私は京都駅までバスだが、イイダさんは祇園の方で用があるという。ここでさよならというわけだ。
「じゃ」
私が言うと、イイダさんは頷いた。
「またね」
ニンゲンのイイダさんに、ニンゲンの私が言う。ニンゲンのイイダさんは頷く。
バスに揺られながら、私は、某氏の名前をすっかり忘れていることに気づいた。

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