らんなー
箱根駅伝をご存じだろうか?
東京箱根間往復大学駅伝競争と言った方が聞き馴染みがあるかもしれない。
新年早々の世間があけおめムードの中、
体力自慢の若者が大学を背負って走る、あの大会だ。
新年を迎えたことが余程嬉しいからなのかもしれない。
彼らは走っている。
三が日なんて他にもすることがあるというのに
彼らは走っている。
なんなら、することがあってもダラっとする期間だというのに
彼らは走っている。
それもめちゃくちゃに本気で。
1月2日の早朝から薄着で山を目指して走っている。
観る人が観たら狂っていると思うだろう。
だが、僕も大学4年間をこの箱根駅伝を走ることだけに費やした。
普通の大学生活を捨て、箱根駅伝を走るためだけに4年間生活した。
僕は高校から陸上競技を始めた。
小学1年生から野球をしていたが、もしかしたら下手かも。と野球歴9年目の中学3年生にしてようやく気付き、ボールを使わなくていい陸上競技を始めた。
入部したばかりの頃は、大学でも続けようとは考えておらず、なんなら怪我したら辞めよう。ぐらいのノリで入部した。
そしたら、入部1ヶ月でちゃんと怪我した。
けど、顧問が怖すぎて退部するなんてすぐに言えなかった。
いつ言おうかと考えているうちに怪我が治った。
だから、退部せずに続けた。
練習でそれなりに走った。
そしたら、高校1年の秋には県で入賞していた。
高校2年では九州大会に3度出場した。
いわゆる、とんとん拍子ってやつだった。
高校3年には九州大会の決勝まで行った。
決勝で6位までに入ればインターハイだったが、最下位だった。
観客席から疎らながらも拍手が出るぐらい哀れな最下位だった。
ただ、駅伝強豪校の選手しかいない中、自称進学校から決勝に行けたことは自信になった。
高校時代は長距離の指導者や長距離専門の選手は他におらず1人だった。
長距離の指導者と同じ種目の選手がいる中で練習すればもっと伸びると思った。
ほな、東京行って箱根目指そか!
と思い、東京農業大学に入学した。
東京農業大学は、僕が高校3年の時に箱根駅伝の予選会を1位通過しており、毎年箱根駅伝に出場している常連校だった。
つまり、学内で上位10人に入る結果を出せば箱根駅伝を走れることになる。
1年生時から結果を出し、4年間で1度は走りたいと意気込んで入学した。
「スポーツ推薦以外は入部を認めていない。」
ほえ?
入学式翌日に駅伝部の門を叩いたら、そう言われた。
正確には、インターホン式だった為、叩いてはいないが。
入部させてもらえなかった。
入学式の翌日、4月2日の出来事だった。
どうしよう。めちゃくちゃどうしよう。
ただ、テスト生として仮入部なら募集しているとのことだった。
7月までに5000mで15分30秒切り、その後12月までに14分台の記録を出せば入部を許可するとのことだった。
良かった。危うく大学生活が2日で終わるところだった。
そうして、仮入部という形で駅伝部での生活が始まった。
普通にきついって!!!
5時起床、朝12km、授業、午後15-20kmを走る生活。
それを毎日。
月に700kmほど走った。年間で約8000km。
ほぼ軽自動車の平均走行距離ぐらい走った。
大学生なのにやってること大人すぎるって
いや、大人でもこんなにやってないって
全然練習についていけない。
仮入部が他にも10人ほどいたが、みんな僕より練習ができていた。
オッズ1.0倍のクビ候補トップだった。
大学生活が2日で終わることは免れたが、このままでは4ヶ月で終わってしまう。
高校時代は自分から辞めようとしていたのに、大学では続けたいのに辞めさせられるとは皮肉なものだ。
それからは、7月の入部条件をクリアするために
まじ焦り、がち走り、くそ辛い
の3コンボで必死だった。
そしてなんとか、7月の最後のチャンスで15分30秒を切った。
なんとか余命を12月まで伸ばすことに成功した。
もうこの頃は、箱根駅伝どころか入部ができるかの心配しかしていなかった。
7月の入部基準をクリアしたことで、仮入部となった。
つまり4月からここまでは、仮仮入部だったとその時気付いた。
仮入部となったことで夏合宿にも連れて行ってもらえた。
8月、9月の夏合宿を経て、チームは箱根駅伝の予選会に向けて動いていた。
自分のことに精一杯だったが、箱根駅伝の予選会がすぐそこに近づいていた。
箱根駅伝の予選会は、20kmを各大学12人走りタイムの良い10人の合計タイムで争う。合計タイムの良い上位10校が通過となる。
主力の先輩に怪我や調子を落としている方もいたが、日本人トップを狙えるような頼もしい先輩もいて予選通過は安泰だと思っていた。
11位だった。
10位と49秒差の11位だった。
10人合計200kmを走り、たったの49秒差で通過できなかった。
あれだけ頼もしい先輩方がいても通過できなかった。
主力の先輩が怪我をして走れなくても通過はできると思っていた。
箱根駅伝は甘くなかった。
たったの49秒。
この1人あたり5秒の差が天国と地獄となった。
自分のことで精一杯になっており、チームのことなど考えられていなかった。
箱根駅伝を走りたいと駅伝部の門を叩いたが、自分の認識の甘さと実力の無さを痛感した。
僕は箱根駅伝予選を敗退した1週間後の記録会で14分台を出した。
ぬるっと入部条件をクリアした。
入部が認められた。
ただ、入部を認めてもらえた嬉しさよりも、予選会を通過できなかった悔しさを今だに憶えている。
正式な入部後は、翌年の予選会を通過するために努力をした。
ただ、疲労骨折やアキレス腱の腱鞘炎、貧血など走れない期間も多くあった。
走る辛さよりも走れない辛さの方が大きかった。
怪我で走れず部内の士気を下げていることに申し訳ねえの気持ちだった。
予選会を通過し箱根駅伝を走るためだけに生活していた。
21時30分に門限、22時に消灯、5時に起床の生活を4年間続けた。
大学生なのに22時に寝ていた。
アルバイトやゼミの飲み会は無く、駅伝部の仲間と4年間ずっと生活を共にした。
普通の大学生がこの生活をしていたら、国会で議論されるような異常を僕たちは平常でやっていた。
全ては箱根駅伝を走るために。
だが、在学中に1度も予選会を通過することはできなかった。
4年間しんどいだけだった。
報われない努力だった。
もっと練習をしていたら
もっと結果を出していたら
と、今だに後悔をしている。
だが、今でもあの4年間が糧となっている。
社会人時代も芸人になってからも、しんどいことはあった。
だが、
夏合宿の30km走に比べたら全然耐えられる。
怪我をして走れない期間に比べたら全然耐えられる。
箱根駅伝の予選会で負けた時に比べたら全然耐えられる。
今でもそう感じらせてくれるほど、あの4年間はしんどいへの感覚をバグらせてくれた。
そして、箱根駅伝という目標に向かって努力した期間は間違いなく無駄ではなかった。
東京農業大学は連続出場を途切らせて以降、9年連続箱根駅伝に出場できていない。
来年1月の箱根駅伝は記念大会で、出場枠が増える。
後輩たちには来月にある予選会を勝ち抜いて箱根駅伝に出場してもらいたい。
そして、あわよくば僕を走らせてほしい。
そのために、今日からトレーニングを始めようと思う。
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