「慣れ」とかいう遅効性の毒
私のXのアカウントには「耳を塞ぎたいこと」を敢えて声を大にして言ってくださる方たちが多数いる。
私もアカウントを作ってそういう方たちと出会い、自分の行動や人生を変えることができた。というのは前回UPした記事の通りだ。
だが毎日のようにつぶやかれるそれを見ながら、私はある危機的な状況について気づいた。
それは人間の持つ特別な習性に付随したものである。
「慣れ」だ。
人間の持つ大きな習性の一つがこの「慣れ」だ。
これがあるおかげで、私たちはある程度の危機から(主に精神的に)逃れることができる。
私自身、以前にいた会社で「とても生活が出来ない」というレベルの給料になったタイミングがあった。
だが、そこで人生が途絶えたということはなく今でも元気に生きている。
(借金は負ったが…)
なぜそうなったかというと、「その生活に慣れた」からだ。
食事は1日1回摂れるか摂れないかだったし、飯を食いに行く金もなかったので炊いた米を握っただけのものを持ち込んでいた。
給料が出る前に米が無くなれば強制絶食生活スタートだし、たまの贅沢にお菓子を買いに行こうものなら、スーパーの100円お菓子の中で、この貴重な機会をどのお菓子を選べば最大限満足して食べられるか、棚の前で2時間悩んだこともあった。
ただ、そんな会社や状況にあっても数年もいれば慣れた。
一生こんな生活を続けるのかという不安は付き纏ってきたので後々必死で逃げのびたが、仮に一生いたとしてもそれなりに適応したのではないだろうか。
恐ろしい話である。
もちろんそれがすべてではない。
これも以前に書いた記事なので手前味噌で恐縮だが、仕事が出来ず自己肯定感が落ちきっていた頃は毎日上司にボロクソに言われても一向に慣れることは出来なかった。2年近く地獄の時期を過ごしたし思い出したくもない過去だ。
このように、環境や心境に依存する部分は大きいしすべてではないのだが、基本的に人間は目の前の危機的状況に慣れてしまう。
そしてそれは、今の我々の環境に関してはなおさらのことだ。
なんせ、上述の通り「今目の前で起きていてまずい状況」ですら、人間は適応できてしまい生きていくことが出来る。
(氷点下に突然置いとかれる、とかなら話は別だが)
そんな我々人間が、「現状はその身を焼かず、感じない熱さや痛み」を前にして動かないなんてことがあっても、仕方のないことである。
先日私が受けた金の稼ぎ方のセミナーの中で、スピーカーの方が冒頭このようにお話されていた。
「こういう話をしても、この中の1%もやらないんですよ。」
思い当たる節はある、というか私自身がそうだ。
世間ではよく「ノウハウコレクター」なんて言われ方をするが、昔から年始に決意を新たにして資格書を購入したりセミナーに応募してみたり、流行りの本を読んでみたり…
今誰かから「その中で何を学んだかパッと言ってみろ」と言われても、言えるものがない。現状こんなに金に悩んでいるのに、なぜそんな風に金を使ってしまったのかと頭を抱えてしまう。
我々の未来の生活への不安は、直ちに身を焼くことはない。
ただ、自覚し始めたときが本当にヤバそうだ。未来のことなど誰にもわからないが、有識者の声を聞いているとそんな感覚はビンビンに感じる。
だからこそ、見えている人たちは声を大にして言うのだ。
「今動きださなければいけない」
「今積み上げ始めなければいけない」
そしてその言葉をまっすぐに投げかけたところで受け取ってもらえないこともわかっているから、自分が嫌われることも厭わずに強い言葉でそれを伝えてくれるのだ。
身を焼き始めている熱に気づけるように、それを超えるようななるべく強い痛みでもって気づかせるかのようにそうした発信をしてくれるのである。
そうした発信に関して、我々は最初は痛みを感じる。
ムカつく・悔しい・悲しい・やるせない、どんな感情かはわからないが、何らかの反応が体内や心情にあった記憶がある。
ただそうした言葉の痛みに、だんだん慣れていくのだ。
「マジか!ヤバい、どうしたらいいんだ!」
「マジか、何か自分でもしないと」
「マジか、そうなんだ。」
「マジか」
「…」
メッセージから受け取る痛みがドンドン他人事になっていくのだ。
これができなきゃ殴られる、などの体の痛みを含有するものであれば話は別なのだがそうはいかないし、そうでもなければ対処しようとも人は思わない。
人は歯の痛みに耐えがたくなってから歯医者に行くし、病気で気を失い、目を覚ましたベッドの上でもないと生活習慣を改めることなど出来ないのだ。
そうなるであろうという未来に対処はおろか対応すらできなくても、まぁ仕方のないことかなと感じてしまう。
言葉はただのインプットであって、学びにはなり得ない。
ましてやそれ自体は救いになどならない。
身を焼く不安と恐怖から逃れられる方法は、自身の稼ぎと結果だけだ。
そういった意味で「慣れ」はそれを妨げる毒だ。
私は専門家でもなんでもないが、「慣れ」は神経性の毒に近い印象を持っている。
じわじわと体の自由を奪っていき、最終的には全身に毒が回って身動きが取れなくなってしまう。そんなイメージだ。
そして危険に気付いたところでもう動くことはできない。ゲームオーバーだ。
そんな毒が、我々の体内には自動的に投入されているのだ。
ただ、毒を受けた瞬間はまだ身動きできる。
逆転の一手はここにしかない。
解毒剤はある。ただ、どこにどのような形をしているかは私たち本人にはわからない形をしている。
であるならどうするか。
痛みを受けた瞬間行動するしかない。
その痛みを起爆剤にするのだ。その痛みがあなたの背中を押してくれる。
そして継続して与えられる痛みはそのままあなたの燃料になっていく。
なにをしたらいいかわからないなんてことはあるはずがない。
出来ることからやっていくしかないのだ。
ちなみに私の場合のそれが、このnoteを書くことだった。
資格もスキルも何もいらない、ただ書き始めるだけでスタートできる物が選択肢として手元にあったことは本当に幸運だった。
そこでついた基礎体力は今でも力になって何かを続ける能力になっているし、できた繋がりから自分が何をやっていくべきかを見つけて行動することが出来た。
何をやればいいかわからないのは、何もやってないからだ。
動かなければ景色は変わらない。そしてその景色があなたを変えてくれることは今までに一度もなかったはずだ。
旅の楽しさの中には、まだ見ぬ景色や風景を見ることができるというものがある。
自分が今いる場所にはない場所・物を知ることができるというものがある。
それと同じで、動くことであなたの目に見える物が現れるはずだ。
何かをやっていれば情報は入ってくる。やるべきことは見えてくる。
それがあなたの道となり解毒剤となるはずだ。
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