#2 仕事とは、労働か人生か
参考書籍1:最後はなぜかうまくいくイタリア人(宮嶋勲・日経ビジネス人文庫)
参考書籍2:フィンランド人はなぜ午後4時に仕事が終わるのか(堀内都喜子・ポプラ新書)
イタリアの働き方
フィンランドの働き方
共通しているのは「自分らしく働く」ということ
イタリア人の働き方は、仕事とプライベートを区分けしない。いつでも仕事をするし、いつでもサボる。逆に言うと「私」の時間に仕事が割り込んでくることにも寛容で、権利意識が低い。
まさに「仕事」が「労働」ではなく「人生」である。
私自身も、この働き方に近く、平日日中はメンバの業務支援を優先し、私自身の作業は業後になりがちですが、だからと言って、業務支援に入らないと私自身が楽しくないため、上司に「大変」と愚痴は言いつつも、それでメンバから「ありがとう」と感謝してもらえると(また、メンバの成長の一助になっていれば)、それで十分な気がしており、その働き方に満足してしまいます。
一方、フィンランド人の働き方は、仕事を「労働」と割り切りつつも、「人生の選択の自由度」が高く、年齢、性別、家庭の経済状況といったことが、仕事をしていく上での障壁にならず(学びに関する支援、趣味やスポーツに対する企業の福利厚生、医師や教師においても有休消化率が100%)、自分らしく働ける環境が整っているとありました。
ここでの「自分らしく」は、やりがい・生きがいを持って働くことであり、「楽しく」働けることだと思ってます。ただ、プライベートはプライベートで、ベリー摘み、きのこ狩り、猟、スポーツと、忙しいため、公私の両輪をしっかり回していくために、仕事の効率を徹底的に追求する、ということでした。
つまり、共通しているのは、「自分らしく働く」いうことになりますが、
国民性として、ルーズさや境界線の引き方に違いがあり、仕事にプライベートを混ぜながら双方を一緒に楽しむか、仕事は仕事で楽しみ、プライベートはプライベートで楽しむ、そのメリハリをつけたいか、そこに違いがあると感じました。
まとめ
私自身は、出不精で、プライベートの交友関係が広い訳では無く、会社の人間関係が私自身の人間関係の中心のため、同僚と飲みに行くことも多く、仕事が趣味のひとつになっています。
そう考えると、仮に死ぬ直前まで健康的で、その瞬間まで時間のほぼ全てを自分に投下できる楽観的な未来を描いた場合、私にはベリー摘みやスポーツ等、熱中できる趣味がある訳ではなく、仕事で人間関係を作っている点も踏まえると、その年代に応じて楽しく仕事が出来ることが望ましいと思いました。
(以前、DMMの亀山さんが「給与は会社が身銭を切る「いいね」だから、そっちの「いいね」の方が良い」とおっしゃられていたのに同感です)
せっかくの自分の時間を使う以上、やるからには楽しく全力で、私自身は、公私混同がやはり性に合っていると感じます。ただ、その先の5年後、10年後も、これまで同じく、楽しく働いていける種をしっかり蒔いていくことも大切、そのために、人に使う時間は曖昧さを残しつつ、それ以外の時間(管理・事務作業)をどれだけ圧縮・効率化して、その時間を捻出できるか、挑戦してみようと思いました。
Appendix
一方、仕事で自分の好きなこと・やりたいことが出来なくなった場合、また、定年後、育児や介護、ながらワーカー等、この先の色んな未来を想像すると、時間的・場所的な制約や制限(就労時間や勤務地の縛り)がある以上、公私混同な働き方に限界が来る可能性も感じました。
他方、参考書籍1で触れてましたが、マルクス主義の理論において「資本主義が最終段階まで進むと、労働の商品化、疎外が極端に進み、本来の人格を取り戻すために革命が起こる」とありました。
労働力としての私の時間の提供による商品化と、生産活動の歯車としての人間性の疎外というのは、極端な例にも思えますが、だからこそ、労働自体が本来の人格であれば、それを取り戻す必要がなくなるため、公私混同も必要であろうということだと思いました。
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