「見た目で判断」するのはどっち?:日米ルッキズム比較
今アメリカに住んでいると、「アメリカってルッキズム(外見の美しさによる差別)がない国ですよね?」と言われたり、逆に「女性はみんな化粧が濃いのでは?」と聞かれることがあります(ステージ上のレディー・ガガのような女性が歩いているというイメージでしょうか、笑)。どちらも正確ではなく、実際のところはもっと複雑です。私の体感としては、少なくとも日常生活では、良い意味で周りを気にせずルッキズムの影響が薄いと感じます。
というのも、アメリカは人種や文化が多様すぎて、自分を他人と比較すること自体があまり意味を持ちません。肌や髪の色のちょっとした違いを比較したり、痩せているとか太っているとか、服の色や長さがどうだとか、そうした細かいことが日本に比べると気にならないのです。日本は同じ民族、同じ文化の人々が大半を占めるため、美の基準が一つに収れんしがちで、そのプレッシャーを受けやすいとは思います。
さらに、アメリカでは日本よりもポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)の圧力が強いため、身体的特徴に触れること自体が非常に無礼とされています。「痩せた?」とか「色が白くてきれいだね」など、褒める意図があってもタブーです。この背景には、文化や歴史が深く関わっています。例えば、肌の色についてのコメントは特に禁忌です。意図がどうであれ肌の色に触れることは、アメリカ社会に根深く残る差別の歴史を無視する行為と見なされます。また、それ以外でも、生来の体の特徴に触れるのはタブーです。「鼻が高い」「目が大きい」といった日本では誉め言葉になりがちな表現も、アメリカでは場合によっては逆に侮辱と受け取られることがあります。たとえば、白人の中には「鼻が高い=大きい」ことを気にする人もいます。このように、美の基準がまちまちで、外見について触れることがタブー視される社会であるからこそ、日常生活においてはルッキズムの影響は日本よりもかなり弱いように感じます。
(逆に、ヘアスタイルや服装、持ち物を褒めることは日常茶飯事です。同僚や友達だけでなく、通りすがりに髪型を褒められたり、Uber運転手に靴を褒められたりします。これらは後天的に変えられる部分なので、相手の内面を褒めていることになるのでしょうか)
とはいえ、アメリカ全体がそうだというわけではなく、地域や属するコミュニティによって状況は大きく異なります。ここでお話しするのは私が体感している、大学や研究所、オフィスが多くビジネスが発達した地域における大学コミュニティやホワイトカラー層の中での経験です。人種も文化も多様な地域です。
この点をご理解いただいたうえで、もう一つ重要な事実をお伝えしたいと思います。それは、エリート・ホワイトカラーの世界では、アメリカにおいても独特のルッキズムが強く働くということです。
身体的特徴に触れることがタブーとされるアメリカにおいても、ホワイトカラーのエリート層では外見が「努力や自己管理」の象徴として評価される傾向があります。日常生活では無頓着に見える部分も、ビジネスの場では一変します。たとえば、歯並びや歯の白さは、健康や信頼性を示す重要なポイントとされ、矯正やホワイトニングはほぼ必須といっていいほど一般的です。また、健康的な体型やフィットネスも同様に評価の対象です。運動習慣があることや、無駄のない体型は、自己管理能力や仕事への高い意識を示すものとして見なされます。
さらに、身だしなみも厳しくチェックされます。たとえば、仕立ての良いスーツや目立たないけれど高品質なアクセサリー、整った髪型やスキンケアが「プロフェッショナリズム」を示す重要な要素となります。これらは「努力や金銭的投資で変えられる部分」だからこそ厳しく求められるのです。逆に、これらの努力を怠ることは「自己管理能力の欠如」として見られ、場合によってはプロとしての信頼を損なう可能性さえあります。
ビジネスにおいて生活や見た目はだらしないけど実は切れ者、という日本の漫画にあるようなキャラクター付けは、アメリカでは日本よりも通用しにくいかもしれませんね。
このように、アメリカと日本を比較して単純に「どちらがルッキズムが強い」とは言えません。日常生活ではアメリカの方がルッキズムの影響が弱く過ごしやすいと感じますが、エリート層では日本以上に「努力の象徴」としての外見が重視される場合もあります。それぞれの社会が持つ背景や価値観を理解しながらも、自分らしく過ごすことができるとよいですね。