労働哀歌
仕事を辞めた。3年と11カ月務めていたらしい。結局、4年持たなかったが、割りと耐えた方だと思う。退職は人生の一大選択のうちに数えられるようだが、私としては、身の丈に合わない服をこの4年弱も着続けた結果、身体中の痒さが治まらなくなったため、一度全裸にならざるを得なかったぐらいの雑駁な感慨しかない。兎に角、痒いものは痒い。他人が痒いと感じているかどうかは関係ない。私の痒さは私にしか分からない。アレルギー性蕁麻疹みたいなものだ。スギは機械的に花粉を飛ばし続ける。彼らの生殖サイクルを破壊する事は、凡人には荷が重すぎる。時間の無駄だ。だから辞めた。
当面の間、有給消化をしながら惰眠を貪っている。怠惰よ、おかえりなさい。ポール・ラファルグも宣うとおり、労働なんて1日3時間で勘弁である。私は怠けたいのだ。何時に寝ようが、何時に起きようが、何をしようが、私の勝手だ。フライパンの上のホットケーキみたいに、ナンボでも昼夜をひっくり返す。朝から酒だって飲んでやる。腕時計も窓の外に放り投げた。怠惰とは、権利である。時計の針に合わせて生活することが、そもそも馬鹿らしい営為であることを、どうやら忘れかけていたようだ。本来、私が刻むリズムは私の所有物だ。他者に易々と明け渡してなるものか。だが、現に私は、リズムを変成させ、他人の音頭に合わせて歩調を変えてきたわけだ。そう、生活のために。
そもそも、人は何故働くのか。実際に退職してみて、よく理解出来た。私は働く事が嫌いだ。いや、正確に表現すると、私の労働、つまり私の力の発現であって成果物であるものの一切合切を、死ぬまで他人の指揮命令下に置かれ続けると思うと無性に息が詰まるのである。
少し脱線しよう。
芥見下々のバトル漫画『呪術廻戦』には、七海健人という呪術師が登場する。ここでの「呪術師」とは、呪術を用いて人間の負の感情から発生した呪いを払うことで、非術師(呪術を扱えない者、もしくは呪いを認識する能力に乏しい一般市民)を守る者ぐらいの意味である。
呪術師となる者は、一人前の呪術師としての能力を磨くため、呪術師の育成機関である呪術高専で修行を積むこととなるが、彼らのルーツは大きく分けて、呪術界において長い歴史と圧倒的権力を有する名門家系(呪術師)出身者と一般家庭(非術師)出身者の二つに分かれる。七海の場合、後者に該当するものの、経歴が若干特殊である。
七海は、呪術高専時代、後輩を守り切れなかった悔恨等から、高専卒業後、一度呪術師の道から降りた後に外資系証券会社に就職している。非術師(皮肉な事に「呪い」自体の発生源でもある)を守る過程で、それと引き換えに仲間である呪術師を次々と失っていく中、彼の心は呪術師を続ける理由を喪失していく。数字(カネ)を追う事に耽溺する事で精神の平穏を保とうとしたのか、結果的に彼は、証券マン、即ち資本主義の真骨頂のような職に鞍替えすることとなった。では、彼は何故あれだけ自身が辟易し切った「呪術師という職」に出戻る決断を下したのか。
それは、日々の過重労働の束の間の癒しとして定期的に立ち寄るパン屋において、体調不良に苦しむ店員に取り憑く呪霊を祓った際、七海の中に「何か」が芽生えたからである。「呪術師も労働もどちらもクソだ」と喝破する七海が、結果的に呪術師の道へと引き返していった背景には、パン屋の店員から受けた感謝の中に、呪術師としての理想像の揺らぎという重く苦しい問いから逃避するため、昼夜を問わず数字に没頭するよう自分を騙し切った世界には明らかに存在しない「何か」があったからであろう。
さて、当初の問いに立ち返りたい。そもそも、人は何故働くのか。生活の糧を得るため、それは当然である。だが、私はこの4年弱で、生活の糧を得るためと割り切れる程、労働というものが、私にとっては単一的な営為では全くないという事を、残業で鈍麻した身体を通じて悟ることが出来た。
この世界と自分との接点をどこに見出すか苦悶すること、そして、この苦悶に対して自分なりの解を出すこと。上述した七海に加えて、七海と同じ問いを抱えた結果、非術師を殲滅するという結論に至った夏油傑(彼も七海同様、一般家庭出身の呪術師であり、非術師と呪術師の境目に立つマージナルな存在である)の姿を反芻してみると、彼らの決意は、ここでの「何故」を考える近道に通じているような気がしてならない。
働くという事に、意味を見出す態度自体が馬鹿げているのかもしれない。いや、別にこれは働く事に限った話ではない。とはいえ、残念ながら、少なくとも私達が人間であり続けようとする限りは、意味を偽装せずともノウノウと生きてはいられない。
だからこそ思う。どうせ偽装するなら、ロクでもない偽装をするより、マシな偽装をしよう。偽装は偽装でも、他人尺度ではなく、私自身の尺度からマシと思える偽装を。パンと薔薇の奪取に妥協なんて不要だ。これは私達の権利なのだから。