見出し画像

洗い物について思うこと

 洗いものって孤独な仕事だ。ほめられることもないし、当たり前だけどお金がもらえるわけでもない。でも誰かがやらないと困ったことになる。

 家事って、基本的にそういうものだとおもう。やらなくてもそれで誰かが重い病気になったり、ものすごい借金を抱えたりするようなものではない。まあ埃が溜まったら喘息とか肺炎になることもあるかもしれないけれど。
 思えば、洗いものはぼくが引き受けているけど、他の色々な家事、たとえば食事の支度、掃除、洗濯などはすべて妻がやってくれている。ぼくも手伝うことはあるけど、それらは基本的に妻が文句も言わずに(まあたまに言うけど)、引き受けてくれている仕事だ。そうして妻がやっていてくれるから、僕たちは特別困ることもなく普段の生活を過ごすことができている。

 洗い物についてぼくが思うこと。

 洗いものをしていると、ぼくはなぜか、空っぽになっている自分に気が付く。ぼくは食器を洗剤をつけたスポンジでこすりながら、「面倒だ」とはあまり思わずに、とにかく無心になって手を動かしている。すると、洗いものをしていることでできた空白みたいなところを、なにか"良いもの"が通りすぎていくのを感じることができる。
 その"良いもの"がなんなのか、ぼくにはうまく言葉にできない。ーー余裕というか、やるべきことをやっている自分をほめてやりたい気持ちというか(もしかしたら、"誇り"ってこういうものなのかもしれない)。その褒めてやりたい自分の過ごす時間って、けっこう大事なんじゃないかとおもう。
 ぼくにとって、洗いものはけっこう大事な仕事だ。
 
 これはとても個人的な話だけれど、夜9時に妻と子供が寝室に向かった後、ぼくは基本的に台所で過ごす。
 なんで台所で過ごすかって、それにはいくつか理由がある。まず間取りのもんだい。これから眠ろうとする妻子の傍でがさごそと音を立てるわけにはいかないし、台所なら寝室までいくつかの戸で仕切られているから迷惑にならない。音量を抑えれば音楽だって聞ける。それがまず一つ。

 だから、台所にはぼくの好きなものが置いてある。シンクやガスコンロの向かいに食器棚があって、その天板にCDとプレイヤー、それから気分に合わせてすぐに手に取れるように並べた本。・・・こうして文章にしてみると、ぼくはかなり我儘な要望をのみ込んでもらっているのだと改めておもう。ーーその空間を妻は調理スペースとして使いたいと言っていたし(たとえば餃子とか肉饅頭の生地をひろげて棒で伸ばすとか)、台所をそういった趣味のために使うのは、あまり一般的ではないと思うからだ。
 とにかくぼくはその空間を妻に譲ってもらった。だから台所はみんなの空間であって、同時にぼくの大切な場所だ。"ここ"抜きではたぶん、ぼくの生活はうまく回らないんじゃないかとおもう。仕事を終えて帰ってくると、シンクには洗いものが溜まっている。朝と昼の分をたまに妻がやってくれている。ぼくは「やらなくて良い」と言う。ほんとうは感謝するべきなんだろうけど、仕事を取られたような気持になる。お風呂に入り、みんなが寝室に向かうころ、ぼくは洗いものを始める。
 自分の大切な場所を、自分の手を動かして、丁寧に手入れをしていく。
 それは仕事とか、忙しい時間の中で得られる達成感とはまた少しちがった、特別な感覚がある。穏やかで、とても親密な気持になれる。


 そして洗いものを終えると、ぼくは好きなことをする。お酒をのみ、音楽を聴いて、本を読む。パソコンを開いて書きかけの文書に手を入れる。洗いものを終えて、ひとつ呼吸をする。まるで洗いものをすることで感じられた"良いもの"を確かめるように、ぼくはそれを吸いこみ、吐き出す。そしてなにかがぼくの中で静かな音を立てている。それは最後に洗った食器を水切りかごに置いたときの、どこか湿った音に似ている。冷たい陶器の触れ合う音だ。それがぼくの中に短い休止符を打つ。仕事とか、家族とか、そういった役割みたいなものを離れた自分のためだけの時間を過ごしている。そして妻は子供とともに眠っている。ぼくはそのことに気が付く。

いいなと思ったら応援しよう!