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のび太とスネ夫と、時々ジャイアン。

のび太とスネ夫を足して2で割ったような、そんな子どもだった。

運動音痴で意気地なしで調子に乗りやすい点がのび太、チビで高慢ちきで長い物に巻かれやすい点がスネ夫だ。また、怠惰で臆病で強欲で泣き虫ですぐキレる、小物感しかない性格だった。よくいえば天真爛漫、悪くいえばクソガキだ。ちなみに、勉強ができたので出木杉くん要素もあるのだが、彼に今回出番はない。

このように、のび太とスネ夫の短所ばかりを抽出し、粘りがなくなるまで混ぜ合わせ、一晩寝かせた後、オーブンでじっくり焼いて完成。僕はそんなクソガキだった。

加えて、よせばいいのに思ったことをすぐに口にする。
授業中、先生に指名された人が問題に答えたときに「それ違うよ」と言ったり(なまじ勉強ができたのが災いした)。
初対面の同級生に、面と向かって「お前、変な顔だな」と言ったり(その相手にはその場で「黙れチビ」と返された)。
振り返ってみれば、「空気が読めない」とか「デリカシーがない」といった言葉たちがピッタリと当てはまる。

そんなんだから、中学・高校時代はいじめに遭っていた。

二択を迫られたとき、Aの選択肢を選べば罵詈雑言ばりぞうごんが飛んでくるし、Bの選択肢を選べばパンチまたはビンタあるいはキックが飛んでくる。つまり、選択ミスなどなく、「僕が選んだ行動はすべてハズレ」なのだ。
それは家に帰っても同じで、自分の感情に従った言動すべてが否定されたように感じていた。反抗もしたけれど、末っ子という名の家庭内カースト最下層者は、上層者に従うほか許されない。
家にも学校にもその他にも、自分らしくいられる場所はどこにもなかった。いつしか、目立たないこと、表立って反抗しないことを覚えた。

そんなんだから、社会人になる頃には、自分の都合を押し殺し、人の顔色をうかがって生きるなにかになっていた。



大学を卒業し、来たことも聞いたこともない小さな町の役場に就職した。

上司の命令に従って仕事をこなし、行事には積極的に参加し、勤務時間外は飲み会という飲み会に参加した。
特に飲み会では、大学時代に学生寮で培われた「体育会系のお酌スキル」が功を奏し、部署を問わず上司や先輩からかわいがられた。仕事や飲み会でのムチャブリにも、相当応えてきた。もし当時の職場で「平成24年度期待の新人ランキング」が執り行われていたら、ぶっちぎりの一位だった自信がある。

しかし、キャリアを重ねていく毎に、「期待の新人」のメッキは見る見る剥がれ落ちていった。

仕事でわからないことを聞いたとき、「自分で考えろ」といわれることが増えた。「自分の思うようにやってみろ」といわれることが増えた。「テキトーでいいよテキトーで」といわれることが増えた。
自分で考えるって、どういうことだろう。自分の思うようにって、どういうことだろう。テキトーって、なんだろう。

独壇場だった飲み会も、だんだん楽しくなくなってきた。2年目になり後輩ができると、僕がお酌に飛び回っても、「なんで新人じゃなくてお前がやってるんだ」と逆に叱られるようになった。飲み会での自分の存在意義を失ったように感じてしまった。

僕は、だれかの指示がなければなにもできない人間になっていた。


葛藤を抱えたまま、気がついたときには30歳を迎えていた。
と同時に、昇進した。役職は、係長。

「係」は職場の組織としては最小単位だが、「長」なのだから責任はそれなりに重い。これまで以上に、自分の意思や判断を必要とする場面が増えた。
しかし、元がのび太とスネ夫のハイブリッドだから、優柔不断で、無駄にプライドが高い。決断を迫られても、自分で決められない。抱えきれないほどの業務に苦しんでいても、上司や部下を頼れない。

そのうち、頭の中でだれかが小言をいうようになった。
「これはダメ」「こうあるべきだ」「こんなこともできないのか」
イマジナリーだれかの言葉が、ことあるごとに脳内で再生される。その度に、自己肯定感がスライサーにかけられたようにすり減っていく。

壊れるのは、時間の問題だった。



異変が起こったのは、31歳の6月だった。

仕事中に息苦しさを覚え、人のいないところで落ち着こうとトイレの個室に駆け込んだ。しかし、呼吸は落ち着くどころか、どんどん速く、そして浅くなっていく。手が痺れ、顔が痺れ、口が開けず声も出せなくなった。体が拘縮し、うずくまった体勢のまま動けなくなった。幸い首から上は動かせたので、個室のドアに何度も頭突きして助けを呼んだ。

異変に気づいた職場の人たちの手によって、僕はトイレから脱出した。その日はもう終業時間を過ぎていたので、別室で少し休んでから帰宅した。


後日、メンタルクリニックを受診した。
「パニック障害」と診断されてなんの感情も湧き起こらないほどには、心は破壊されていたと思う。

週に1回の診察が、1か月くらい続いた。
その中で主治医にいわれた一言が、今も忘れられない。

「もっと我儘わがままに生きてもいいんですよ。我儘は、悪いことではないんですから」

ワガママ、って、あのワガママ?

のび太やスネ夫もさることながら、我儘といえばやはりジャイアンだ。「お前の物は俺の物」という名言は、我儘の代名詞にして真骨頂にして金字塔だ。
僕はジャイアンが嫌いだった。ガキ大将でいじめっ子、なりはデカいが頭は悪い。大して上手くもないのに歌うのが好きな点を除けば、自分と大きくかけ離れた存在だからだ。
それ以上に、傍若無人で、周りに配慮のない、自己中心的な性格が嫌いだった。

子どもの頃、我儘に生きた結果、孤独で不幸になった僕。そんな僕にとって、我儘とは悪そのものだった。
しかし、主治医は「我儘は悪ではない」という。今までだれかの声に従って生きることしかできなかった僕にとって、すぐには飲み込めない言葉だった。

主治医は続ける。

「我儘な人って、周りにもいるでしょ? でも我儘な人がみんな孤独で不幸かといったら、そんなことはない。あなたは『我儘は悪だ』と思っているかもしれませんが、人間ね、少しくらい我儘でいいんですよ。それに、『我儘は悪だ』と思っているのは後天的に刷り込まれたものだから、きっと変えられます。大丈夫ですよ」

この言葉を飲み込んだのは診察後しばらく経ってからだったが、飲み込んだ瞬間、僕の人生のターニングポイントが確かに発生した。
職場で倒れた日から3か月が経った頃、僕は9年半勤めた町役場を退職した。



昭和から平成、平成から令和と、時代の変遷にともなって、人生の価値観のようなものも少しずつ変わっていった。
僕は平成初期に生まれたが、昭和の考え方で育ち、平成に馴染めないまま、令和にやってきてしまったようだ。「いうことを聞きなさい」「口答えするな」が常にBGMとして脳内に流れ、でも中身はのび太でスネ夫だから反発したくなる。でも反発したら孤独になるし不幸になる。そこで、せめて彼らを心の中に幽閉し、ジャイアンを憎むことで、世を渡り歩いてきた。

ところが、それは間違っていたらしい。
我儘を封じることは、周りに迷惑こそかけないかもしれないが、自分を必要以上に追い詰める。しかも、迷惑をかけないのは初めのうちだけで、後からじわじわとしわ寄せがやってくる。長い目で見ると、むしろこっちの方が孤独で不幸になってしまう。
それに、だれかに依存して生きたとして、その結果がどう転ぼうとも、だれも責任を取ってくれないのだ。

自分の人生は、自分の責任で生きる。そのことに、三十路を過ぎてから僕は気づかされた。


町役場を退職してからの3年間、いろいろなことがあった。
在職中に採用が決まった会社があったが、担当者の対応が気に食わず、内定を辞退した。
その後、別の会社に就職したが、続ける自信がないと判断し、8か月で退職した。
実家に戻り、フリーでWebライターを始めたが、エッセイの方が性に合っていると思い、1年足らずで辞めた。
そして今、実家で親のスネを全4本とも齧りつつ、アルバイトの傍ら文章を書いている。収入こそ役場職員時代の3分の1以下だが、幸福感は3倍以上だ。

この3年間、自分で選び、自分で決めてきた。自分の人生を我儘に生きてきた。
とやかくいう人もいるだろう。でも僕は、責任を取ってくれないだれかの声なんてもう気にしないし、そんなの気にする必要もない。だって僕の人生だから。

我儘は、多少なり他人に迷惑をかける。そのことを否定はしない。節度が必要だ。
ただ、我儘とは、自分の人生を生きている実感をくれるものでもある。その実感を「生きる喜び」と呼ぶのかもしれない。

僕は今、生きてて楽しい。
役場職員時代の僕に伝えたら、信じてもらえるだろうか。「我儘は意外といい奴」だと、信じてもらえるだろうか。
信じないだろうな。でもそれでいい。想像していなかった未来の方が、きっと面白いから。


「ジャイアンだって、映画の中では基本的にいい奴だもんなぁ」

そんなことを考えながら、僕は今日も自分の人生を生きていく。のび太と、スネ夫と、時々ジャイアンと。



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