「国民作家」という装置

『創造された古典』や『創られた伝統』についてはかつて触れた。

ここではイーグルトンの[文学とは何か』を参照してみる。夏目金之助が英国に滞在していた世紀の変わり目、英国はボーア戦争に苦戦して民心の離反に苦慮していた。

そこで民心統合の装置として持ち出されたのがシェイクスピア。彼を「国民作家」と持ち上げ、国民に自分たちにはあの偉大なシェイクスピアがいるんだと。

「国民作家」などというのは民心統合の装置に過ぎない。

漱石夏目金之助や鴎外森林太郎が近代作家の巨匠であるかのごとく取り扱われているのは当然のことなのだろうか?

露伴幸田成行や紅葉尾崎徳太郎なども当時としては超人気作家で、必ずしも夏目や森がずば抜けた作家だとは認識されていなかった。

それが帝国日本の海外侵略につれて民心統合の一手段としてだと夏目金之助の神格化が始まった。幸田や尾崎に比して夏目はその資格に事欠かなかった。

東大英文科の一期生、英国留学もしてるし、誠にうってつけの作家だった。

初期の夏目は『猫』や『坊ちゃん』など日本の近代化や資本主義化に大いに批判的であり、貨幣の色分け説(労働の一般価値説批判)まで紹介している。

しかしそれも『坑夫』あたりまでか。自身が経済的に豊かになるに連れ批判性が乏しくなり『こころ』などは愚作とさえ言えるのに、長らく教科書に採択され続けて来ている。男性中心主義の臣民化作品のオンパレードであるのが後期の作品群。(とは言えテクストから何を読み出すかは自由であるのは言うまでもない)

森林太郎も然り。『舞姫』はダンサーに夢中になっていた主人公が登場人物の「天方伯」に許されてエリスを捨てて帰国する話だけども、これは自身の遊蕩も天方伯こと陸軍大臣山県有朋に許されたというお墨付きであることを周囲に知らせるために書かれたとか。

妊娠したエリスを捨てて帰国する太田豊太郎はひどい男ですね。それがまた教科書にずっと採択されてんです。

森林太郎がドイツに学びに行ったのは軍事衛生学、軍隊が遠征しキャンプしても伝染病を流行らせないための学問。

森のドイツから持ち帰った衛生学かあって初めて日清戦争が可能となり、実際森は戦地に赴き陣頭指揮までしたとか。

もっとも森は晩年、天皇制や歴史学への批判はしてるけど、それらはスルーされ、全集以外では読めない。評伝として人畜無害な『渋江抽斎』などが傑作として持ち上げられるばかり。

夏目の『こころ』が本当に優れた作品なのか? 天皇に殉死した乃木に殉死なんて噴飯ものだし、それなら先生と私との男同士の絆=ホモセクシャル小説(逆に言えばミソジニー)、奥さんと私とのadultery=姦通不倫テクストと読む方(そのようなテクストも既にある)が遥かに刺激的だ。文学作品というテクストこそどう読むかを問われるものであり、テクストの読みに正解もなければ筆者の「意図」など神話に属するものでしかなく、フーコー以降の読者にはその作者名さえ不要だと考えられているのだ。

「国民作家」とは何なのか、私たちは真摯に反省してみる必要があるだろう。

維新期をロマン化してヒロヒトの時代だけを悪とした司馬遼太郎、しかし維新政府はロマン的であるどころか、国民国家成立後すぐに台湾と朝鮮に侵略を始めており、維新政府こそ帝国日本の悪業の嚆矢だったのだ。『坂の上の雲』は罪深い。

その司馬を「国民作家」としようとほめそやすのが自称哲学者の内田樹。

司馬の「街道をゆく」も韓国への差別や偏見に満ちたもので、ヘーゲルの「アジア的停滞」史観を手を変え品を変えて繰り返しているのだ。参照:雑誌「現代思想」1997/9月号の李成市、李孝徳、成田龍一の鼎談「司馬遼太郎をめぐつて」

「国民作家」という言葉ほど恐ろしいものはない。

余談めくが、かつて京都大学の学生が自身の拙い作品を出版社に送り、学生作家とかとにかく売れる要素のある作家を求める出版ジャーナリズムと利害が一致して、彼に芥川賞を受賞させ、そして大した作品もないのにしれっと芥川賞の選考委員にまで押し上げている。彼の代表作つまり論ずるに足るようなテクストは生産されてしているのだろうか、寡聞にして知らない😓

英国のブッカー賞は出版社が独立して選ぶのに、日本では例えば芥川賞は「権威ある」作家たち(選考委員)と出版ジャーナリズムとが結託して、権威主義と縁故主義と利益至上主義の巣窟と化し「文学」の衰退に加担しているのだ。

こういう「文学」の衰退を目の当たりにするにつけ、柄谷の「日本近代文学の終焉」説は実に説得力があることになる。
『日本近代文学の起源』という始まりを論じた彼は見事にその終焉をもって「文学」を閉じたことになる。👏👏👏

夏目や村上春樹を読むくらいならフーコーを読んだ方がよほど「ためになる」。自己修養として文学の果たした時代は確実に終わった。私たちに今問われているのは「国民作家」や「文学」などという文化装置(その代表がメディアであり出版ジャーナリズムだろう)による洗脳という社会的構築に抗ってどのように「正気」を保つか、「狂気」に陥らずにいられるかではないだろうか。

安倍の国民葬にノーを言わず唯々諾々と臣民ぶりを発揮する多くの市民のなかで、どのように「正気」でいられるかの問われているのが現代という時代なのかも知れない。